東京大学 現代文 「反知性主義者たちの肖像」(内田樹)
今年の東大の現代文。読んで、解いていて途中で吹き出してしまいました。

内容は、

反知性主義者=知識教養がない人 ではなく、
知識量も多く論理的だが、自己完結していて
他者とのコミュニケーションを通して知性を生み出すことがない人

といった内容。受験生の話によると、

某予備校が
「例年新しい研究分野を現代文で出題する傾向があるので
今年の東大はコミュニケーション論だ」

と予想していた通りだったとか。すごいですね。

ただ、私がこの文章を読んでおや?と思ってしまったのは別のところに理由があります。

まず、解答がどのように作られているかを予備校の模範解答から分析してみます。

<設問4> 「その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力」とはどういう力のことか、説明せよ。
① 予備校A解答

人間が集団として情報を得て、その軽重を吟味して仮説を立て。
対処の合意形成を行う過程において、他者の知の自己刷新を促す
というかたちでの影響を他者に及ぼす力。

② 予備校B解答

集団として直面する事態に関わるうちに、個々人に新たな気づきと
発想をもたらし、集団全体の知的パフォーマンスの向上を促す力。

③ 予備校C解答

集団内でのやりとりを通じた合意形成に至る過程で、個人だけでは
思いよらぬ発想を人々にもたらし、人々相互の活発な知的活動を
創出する力。

④ 予備校D解答

集団において情報を摂取・吟味し、特定の仮説の下に対処法の合意を
形成するという一連の動的過程を活性化し、他者の創造的な行動を
促す力。

さて、各予備校の解答がどのように作成されているか見てみましょう。

まず、①予備校Aの答案を分析してみます。

(解答)
1)人間が集団として情報を得て、
2)その軽重を吟味して仮説を立て対処の合意形成を行う過程において、
3)他者の知の自己刷新を促すというかたちでの影響を他者に及ぼす力。

1) (本文)「人間は集団として情報を採り入れ、
2  (本文)「その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処す べきかについての合意形成を行う。」(下線部直前)
3) (本文)「知性とはそういう自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。」

1)2)は下線部直前の本文を別の言葉や別の語順で言い換え圧縮したものだということが分かります。
3)は少し離れたところにある表現を使っていますが、最終の2つの段落全体の内容をコンパクトにまとめています。気になるのは「他者の自己刷新を促す」という表現ですね。これは明らかに本文の表現を一面的にしか扱っていない答案で問題ありと判断しますが、どうでしょう?

「他者の自己刷新」という表現からは、「自己」「他者」を二元論として捉えているニュアンスが伝わってきますが、本文を読んで私は内田樹氏が「二元論」的に論じているとはどうしても思えません。
次に②予備校Bの答案です。

(解答)

1)集団として直面する事態に関わるうちに、
2)個々人に新たな気づきと発想をもたらし、
3)集団全体の知的パフォーマンスの向上を促す力。

1)(本文)「集団」というKey Wordを入れ、本文から直接引用するのでなく、内容をまとめていますね。
2)(本文)「それまで思いつかなかったことがしたくなる」までの具体例
3)(本文)「その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は知性的な人物だったと判定される」

1)は個人の問題解決を想定してないから出てきた表現なんでしょうか?
「集団として直面する」なのか「集団として+直面する事態に関わるうちに」なのか
曖昧さを残した日本語になる点に気持ち悪さを感じてしまいます。

私としては、③予備校Cの解答が「現代文の模範解答としては」一番しっくりきます。

1)集団内でのやりとりを通じた合意形成に至る過程で、
2)個人だけでは思いよらぬ発想を人々にもたらし、
3)人々相互の活発な知的活動を創出する力。

1)2)3)ともに本文に直接の対応箇所があり、それらをコンパクトに圧縮した形になっています。

予備校④の解答は、最後の箇所「他者の創造的な行動を促す力。」の箇所に予備校Aの解答例に感じたのと同じ違和感を持ちました。

何故かというと、内田氏は「主観」「客観」を明確に分けて知性を論じているのではなく、

「場」を共有することで、それぞれの個が能力を増幅させ、「集団的現象」としての「知性の発動」を実現する

と読めるからです。他者だけでなく、参加する「個」の能力増幅も当然実現しているはずだからです。
と、ここまで国語の教員でもないのに素人考えを披露してきましたが、実は今回私が笑ってしまった

のは別のことです。それは
東京大学は、「知が主客分化したそれぞれの独立した個からでなく、個と個相互の協同作業から生み出される」という文章を用いて
学生の「知性」を「主客が完全に分化した(主=出題者 客=学生)試験」というツールで測ろうとしている。

ことに、なんだか皮肉というか、おかしくなってしまったからです。

何を書いても、減点法で模範解答を押し付ける姿(それも学生に見えない所で、模範解答も自ら発表せず)は内田氏の批判する反理性主義そのものなのではないのでしょうか?

それとも、そうした内田氏の文章から受験生は本文切り貼りではなく
「内田氏の知性に触れたからこそ書ける答案」を書くべきなのでしょうか?

それが問題に明示されていない以上、普通の国語の問題として解いた受験生がほとんどだと思うのですが。

私の勘違いでしょうか?皆様はどう思われますか?
さて、「読解力」に加えて、「記述力重視」の学力が現在の教育改革では叫ばれています。
悪いことではないと思うのですが、問題は単純ではないように思います。

記述問題の出題というのは、様々な課題を含むものです。
一般に科目を問わず、記述問題を出題するなら

① 明確な採点基準
② 採点誤差を可能な限り小さくする

の2点がなければ、入試のような場での試験としては「粗悪品」と
言わざるを得ないのではないでしょうか?

受けるたびにスコアの上下が激しく、何がどこまで出来ればどういう点数が
もらえるのか?

こうした問いにこれまでの長い受験の歴史の中で、大学が真摯に答えたケース
は、ほとんどないのではないでしょうか?

予備校や一部の進学校の教員だけが、「仮説」「経験」を用いて
学生に答えているのが現状ではないでしょうか?

また、測定を目指す「読解力」「記述力」も簡単に定義出来ません。

これからの時代に必要な能力についての深い洞察がなければ、測定すべき学力そのものを決めることが難しいからです。今年の東大の問題のように「切り貼り」ですか?それも悪くないですが、それが全てですか?本当に子どもたちの育成のために議論が尽くされているのかが心配になります。

「平成の教育改革」によって、「記述力UP・論理的思考力UP」の必要性が叫ばれています。(「成績の価値」について、まだまだ評価が確定しないレベルの国際共通テストの結果からなんでしょうかね?)

私も、「自分の意見を他者理解を目指して表現する力」の養成は必要だと
考えますし、「他者」は日本人はもちろん、様々な文化の人々に広がっている
からこそ、従来の教育では不十分だとする考えにも賛成です。

しかし、日本の学生の学力や日本という国の国力を憂うのはいいのですが、
そうした「日本の未来」が試験で測定可能な能力の向上のみで明るくなるとも
思えません。

そもそも、「過去の成功モデルを取り戻せ」「過去の日本を取り戻せ」
と言いながら、環境や時代の変化に目が行かないようでは
とても新時代を担う人材を育てられるとは思えないですね。

私個人としては、「従来通りの試験の精度」を高め、「全体の中である
限定的な能力を測定する物差し」と位置づけ、それを絶対視せず
様々な能力は「一つの試験で測定することに限定せずに」鍛える方法を
追求していく、のがよいと考えます。

残念ながら、現在提示されている教育改革は私が理想とするのとは真逆に進んでいます。

試験の一元化は、センター試験だけでなく、共通一次に始まりました。

英語の学部試験導入により、それぞれの大学が目指す育成人材にふさわしい人材を見極める
独自試験も縮小の方向に進むでしょう。

だからこそ、どの大学の説明会に行っても、「グローバル人材・英語教育・キャリア教育」しか
聞こえてこない。

それらが必要なことは分かります。

しかし、「解なき時代に解を創造出来る人材」は「金太郎飴製造のような人材育成」によって
生れるのでしょうか?

もし、「グローバル・英語・キャリア」教育では、解決しない問題に直面したら
当然、そうではない別の人材が必要になります。

が、現在の教育改革ではそれは難しいでしょうね。

余計なことをせず、それぞれの大学の理念と教育に任せる

これが大学の質の低下を招く可能性も否定できませんが
少なくとも、金太郎飴大量生産を推し進めるよりは
多様性が適応を産んでくれる未来に繋がるような気がします。
話がまとまってませんね。すみません。
今日はこのくらいで。

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