まさかのドキドキ体験

昨日は日仏会館・フランス国立日本研究所(UMIFRE19 フランス外務省・国立科学研究センター)主催の日仏シンポジウム
『21世紀の働き方 日本とフランスの比較』に参加しました。
https://www.mfj.gr.jp/agenda/2020/11/28/colloque_travail/index_ja.php

14 : 00 – 16 : 00 パネルディスカッション3 性別職務分離の変容―日本的雇用システムの転換―司会:金井郁「ILOのジェンダー平等への取組み」 田口晶子(前ILO駐日代表)「コロナ危機と女性労働者」 大沢真知子(日本女子大学)「二つの国民:日本の二重構造と労働市場」 小熊英二「職場の男女不平等を削減する : ワークライフバ ラ ンス政策の役割」
エレーヌ・ペリヴィエ(パリ政治学院)

ジェンダー問題と労働市場問題の両方勉強出来る貴重な機会だったので。
Zoomウエビナーで参加したんですよ。実を言うと最近買ったiPadでベッドで横になって…。


そしたら…ウエビナーなのにですよ?
Q&Aに書き込んだ内容を見た司会者からまさかの指名😲!?それ、有り????
いきなりミュート解除され、『鮫島さん、どうぞ』って😅。心臓止まるかと思いました。小熊さんにはライブハウスでお会いしてご挨拶してますが、他の方々は面識ないし、そもそも、わい、パン一でした、実は😅

飛び起きて…
エレーヌ・ペリヴィエさんと小熊さんに質問をしました。

以下、私の質問。
フレキシキュリティについて興味を強く持っています。
フランスでは学歴による社会の硬直化が課題になっているという発表がありましたが、高流動高保障社会への転換は議論されてないのでしょうか?

エレーヌ先生の回答(講演内容含む)フランスは小さな政府を目指したセキュリティー不在の高流動が起こってる。ジェンダー問題解決の為に様々な政策が取られているが、そもそも財政緊縮の文脈で行われているため、育休期間の保障も最低賃金の半分から三分の一へと減らされ、期間も三年から二年として、女性の職場復帰を促す為に残り一年は男性が取るようにとしているが、特に女性の復帰の場合に元のキャリアが保証されない問題が起こっている。

小熊先生の回答
経営者、労働者ともに既得権の縮小をどこまで自浄作用として承認出来るかに掛かってると。ジェンダーギャップ解消とクラスギャップ解消の課題解決は必ずしも両立しえない場合もある。


私としては、小熊さんにはフランスの現状も踏まえて今後の日本の見通しを聞きたかったけどそこまでやり取りの時間はありませんでした。
ふぅ~。とりあえず画面まで解除されてパンイチで登場しなくてよかった~😱😱😱😱

新入社員に求められるのは「主体性」?

https://www.recruit-ms.co.jp/issue/column/0000000824/

経団連はじめ企業の発信を読むと、「主体性」を「求める資質」の上位に挙げる企業は多い。

でも、「主体性」を備えた人材をどう活かしているのか、という発信をする企業はほとんど見かけません。企業内のハイパフォーマーや役職者の美化されたサクセスストーリーの中で語られるものが、その企業の文化だとも思えないですし。「即戦力」=「OJTが限界」ということでもあるはずですが、現在企業が抱える人材のリカレントなどにどう取り組むのか?という発信もほとんど見ない。

要は「これからの未来に向けて企業も不安だし、育てる余裕もないから即戦力くれくれ」としているようにしか見えない。主体性の欠片も感じない。

もちろん、大学のみならず、小中高も「社会に貢献すべき組織」だと思うので、社会人として立派な人材を育てる義務があると思います。また、「公金」を、公立はもちろん、私立だって一部とは言え使っている限り、社会的存在意義について市民社会からの信頼が土台になければならない。その意味で、まだまだ自分を含めて、そのメタ認知や努力が不足しているとも思います。

しかし、経団連や同友会の提言を見ると、「社会に必要な人材」とやらが、特定企業の「即戦力」に見合う人材養成に矮小化されているように見えます。資本Orientedで、社会・国民Orientedではない。そしてその結果、「消費者」が育たず自分で自分の首を絞めているようにも感じます。

資本に隷属する人材育成ではなく、社会貢献する資本と人材育成へ

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65696690Q0A031C2DTB000/?fbclid=IwAR1TZCs4VY-S8xjcXg3RBdniqP9G5xGqyjjzWQJp1GekobSRNfiOGxFq-tg

再エネルギー大手に資金が集まる世界的な流れ。

逆に日本は電力10社の時価総額、デンマークの風力大手に及ばず・・・。

OJTが限界の日本企業では即戦力が必要!だからその育成という役割を教育は果たせ!

そういう文脈で教育改革も語られてしまったからこそ、上手くいかなかったのでは?

まず、大人が社会貢献を。自分を含めて変わらなければならないのは大人の方だと強く思います。

Audrey Tangさんから学ぶ

「私は、プログラミング教育よりも「素養」(教養)を涵養するような教育を重視すべきだと考えています。台湾ではこれまで「競争力」を重視するかのような教育が行われてきましたが、現在では「素養」を重視するように教育方針が変わりました。自発的で、ともに助け合い、共通の利益を求めるという3つの要素を重視する教育への転換です。日本の教育政策の方向性は正しいと思いますが、台湾ほどのエネルギーは発していないかもしれません。」(以上、引用)

私が先日のイベント(イノベーション・ガーデン)で質問した内容についての答がまさにこれでした。

「どう勝つか?」

財界主導の教育改革も、海外への活路も、私にはそれしか見えていないように思えます。もちろん、今の教育も、もう随分と賞味期限切れの「科挙一発選抜と正規勝ち組維持路線」を継続している。

「クビに出来ない社員などもう雇えない。だから派遣」とかいう新自由主義的なインフルエンサーがいますが、それには反対しても現行の教育も科挙も保守して守ろうとするのでは、何も変わらないどころか、結局弱者への犠牲、搾取を止められないでしょう。

そんな社会構造から抜け出す流れが、コロナ禍をキッカケに、台湾での教育でもさらに見られるようになったと彼女は語ってくれました。

彼女にはとてもとても追いつけないけど、自分が見てる方向のはるか先に彼女がいる。

非正規搾取と正規既得権の終焉?キャリア教育はどこへ向かうべきか?

望む、望まない、に関わらず当然の変化になるでしょう。小熊英二さんの指摘を借りれば、今までよくもたせてきた、と言えるのかも知れない。その時、それぞれの個人間での既得権争いになれば結果として資本が太るだけになる。狭い組織内で我が身可愛さに流れされれば、芥川龍之介の蜘蛛の糸の世界になる…。こういう組織もドンドン腐るんだろうなぁ。分配側に回って偉そうな顔してるだけの無能。でも、いつまで無事でいられるのかな…。

もちろん、太るどころか、支える体力のない企業は潰れ失業率が上がれば社会全体が壊れる。というか、壊れているものを差別的搾取構造で必死に支えてきただけなのかも知れない。そもそも、心的安心安全がごく一部にしか保証されない新自由主義的な社会では、生産性も向上が見込めない。だからこそ#フレキシキュリティ しかないのかな。

怖い記事ですが、全体最適化から個別最適化を考えてコンセンサス構築が必要な時代になったのだと思います。

さて、こうした時代に、『勝ち方』『ライフハック』などのキャリア教育にはドンドン意味がなくなるように思います。アイデンティティをしっかりと考えさせると従来の進路指導は当然継続するとして、環境の変化にどれだけ自分を合わせていけるのか、といったマインドや経験値を身につけて貰うことを具体的にやっていかなければならないと思っています。

いや、その前に、大人が学び変化する、それを子ども達に感じて貰えなければ話が始まらないこともあるでしょうし、そもそも教員ももう「一段高いところからしか安心して発信出来ない」といったスタンスを止めるべき時期、いやとっくにそれが必要なんだと思うのですけど、自分も含めてまだまだ実践できていないなぁと思う今日この頃です。

人間に近いアンドロイドを追究すれば、人間理解が進む!?

https://forbesjapan.com/articles/detail/23573?fbclid=IwAR0dHenkqLQ3TcW4Cnn-znf6u06HlGbWB6Y9vOolYYZsEmCv3fOi0Jgw-BU

あるイベントで、大阪大学石黒先生を知ってしまったことで最近、アンドロイドと人間というテーマで考えることが多くなりました。こうやって新しいことを知って考えたり学んだりすることが楽しいうちは、生きているのかな?と思うことにしています(笑)。

上記のリンクの記事も面白い。

先日の宗教家との対話でも話題になってました。テクノロジーの進化が人間観をドンドン変えていくというお話。

ただ、一つだけ疑問が生まれた。石黒先生のおっしゃることへの疑問ではなく私の中でふと生まれた疑問。

私達の『経験(生きていることそのもの)』『記憶』『データ・記録』は果たして同一のものなのか?写真や映像を見て、それを経験と同一視する人はいないと思います。『経験』とは決して定着出来ないもの。そして全体として部分に還元出来ないもの。

昔好きだった福永武彦の『草の花』の中にもあったように記憶してますが、定着不可能なものを必死で定着させようとする人の心の哀しさ。しかし、記録媒体の多くが進化していけば、更に純度の高い『データ・記録』は可能になるでしょう。それらは、『記憶』と、もしかしたら区別が出来ないものにまで高まるのかも知れません。いや、間違いなく「記録」の方が「記憶」を質で凌駕するでしょうね。

そうした『データ』を内在化したアンドロイドが誕生した時、果たしてそのアンドロイドとオリジナルは同一のものと言えるのかどうか?自己中心性(自分の内部から生きていること)の問題もそうですが、私の中では考え始めると眠れなくなる疑問が一つ増えました。しかし、石黒先生って面白い方だなぁと思います。

人間が生きていくうちに「記憶」の方はドンドン消えていったりします。少なくとも走馬灯を見るまでは日常の生活で見えるところからは消えているのかな?

その忘却が生物に必要ということから考えると、『経験(生きていることそのもの』は『記憶』『記録』の軸に向かう物ではないものなのかも知れませんね。

VRの可能性についてふと思う。

VRの可能性についてふと思う。
VRの可能性としては、現実ではなくとも目の前の映像や身体感覚をリアルなものとしていかに感じられるか、が追求されているように思います。これは教育の分野でも今後ますます活用が広がって行くでしょう。行くのにコストが掛かってきた留学もバーチャルな留学になれば、低コストでより多くの人の学びの幅が広がるし、バーチャレンジな宇宙旅行、バーチャルな事故の瞬間など人が本来なら体験不可能な領域や二度は体験出来ないものも体験出来る様になるかも知れない。
ただ、ふと思ったことがあります。いつものように単なる思いつきですが。
自己中心性=自分の内側からこの人生を生きているという事実
ピアジェの発達段階の話ではなく人間という存在の本質的限界
これもしかして、VRで超えられる?
思考の部分、観念の部分では無理でも、感覚の転送や、自分を他者の視点からリアルに認知出来るとしたら。
他者を痛めつける自分に痛めつけられる被差別者の体験も人の痛みが分からない人間に体験させることが出来る…。そんなことでこの世の中から差別や戦争がなくならないのかも知れないけど、ふとそんなことを考えてしまいました。

中教審答申(2014年12月22日)と2020年7月14日経団連「Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言」についての 勉強会

昨日は最近の教育改革について、2000年あたりからの経団連・経済同友会などの提言、中教審答申などの勉強会に参加しました。少人数の非公式の勉強会なのですが、個人的には非常に勉強になりました。その中で平成26年(2014年)の中教審答申と経団連の最近の発信が話題になったので備忘録としてまとめてみます。

① 2014年12月22日 中教審答申

新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(答申)

この資料、改めて読み直してみると、「教育改革についての方向性」について個人的には賛同出来る部分が非常に多かったことに驚きました。

(4)高大接続改革を推進するに当たって留意すべき点
「高大接続」とは、高校生の全てを大学教育に接続するということではない。(中略)高大接続を議論する際には、高等学校卒業生の多様な進路を踏まえ、国家及び社会の責任ある形成者として、自立して生きる力を高等学校教育において確実に育むという視点が重要である。
あわせて、高等学校卒業後、生徒がどのような進路を選択するにせよ、経済的な理由
のみによりそれが左右されることのないような配慮も必要である。

⇒ ここでは、高大接続改革の本質が、高校教育から大学教育への準備に限定されるものではなく、高等学校の教育そのものがまず独立したものとして、社会に出て行く子ども達の成長のためのものであることが述べられている。授業だけでなく学校生活そのものが自己目的的なものではなく、様々な活動を通して生徒が成長出来る機会・環境を高校が準備するものであるべき、という公教育の意義がきちんと発信されている。だからこそ、答申は次のように続く。

また、「高大接続」の改革は、「大学入試」のみの改革ではない。その目標は、「大学入
試」の改革を一部に含むものではあるが、高等学校教育と大学教育において、十分な知
識・技能、十分な思考力・判断力・表現力、及び主体性を持って多様な人々と協働する
力の育成を最大限に行う場と方法の実現をもたらすことにある。

⇒ しかし、実際の高大接続は「民間英語試験導入」「センター試験から共通テスト」「共通テストにおける記述式導入」「1点刻みではない入試」といった方向に進んだように見える。なぜ、この教育改革がそこにフォーカスされてしまったのか?それは「現在の教育の実態」を踏まえた具体的改善策の不在が大きいのではないかと考える。

つまり、「どこの大学に入学出来る学力をつけたか?」という入試学力という観点から現場の学校教員も保護者も学校の価値を評価する流れが大勢であることを前提に、それをどう変えるのか?についての具体的な方策についての発信がない。そもそも、スクリーニング機能としての入試とその先の社会という路線、資本を含む大人の在り方や社会との関わりについても論じられることがない。「高い進学実績・英語教育・グローバル教育・ICT」といったものが教育市場で売れてしまっている現実があり、そんな中で高等学校における教育が「社会に出て一人前になる資質をどうつけているのか?」について、教育現場からの自画自賛的な発信があっても、そんなものに説得力を感じて貰えるとは到底思えない。また、学校の外から学校の課題を批判するだけの人達に、大田堯先生のような深い教育観を感じることもほぼ皆無である。

分かりやすく言えば、学校内からは「これまでの学校教育の否定を受け付けない、変わりたくない、今売れているものを手放せない」という膠着を感じるし、学校外からは「社会に出て役に立たなければ意味がないんだよ」と今社会で停滞している自分を棚に上げた無責任な教育への一方的な押し付けを感じる。

授業・家庭学習の学びを通して高校の3年間でどのように成長したのか?

行事・部活動・委員会・生徒会活動を通して高校3年間でどのように成長したのか?

高校という環境が子ども達の成長にどのような成長を促す仕組みになっているのか?

これらは、簡単に口で説明して理解して貰えるものではない。にも関わらず、学校の発信はホームページ、通信その他を通した一方的発信が中心であるように思える。そしてその発信は高大を問わず、ますます画一化しているのも以前指摘した通りである。

ここにあるのは閉じたムラ社会化した学校と、新自由主義的な価値観の中で分かりやすい「成果」を求める「お客様意識」のマインドだけではないか。また、正直個人的にはどうでもいいけど、「教育が変わらなければ」と改革を振り回すだけに見える焼き畑農業のようなどこに根があるのか、どこに向かっているのか分からないような大人のマインドもあるかも知れない。

学校は子ども達の成長のための場であるはずであるが、教員というムラ社会の大人の管理の都合から仕組みが出来ており、そこが変われていない部分も多い。また、一方でその学校を外側からPBL(Problemの方ね)の対象とばかりに糾弾し、学校そのものを壊そうとするだけの大人もいる。その動きで解放される子どもは全体のどの程度いるのか?

学校を共同体として再生する努力なしに内からも外からも変わるはずはないわけだけど、その学校が「外」と接する場としての「大学入試」に、この改革がフォーカスされてしまったのは必然のように思える。

(3)高大接続改革の意義
特に、18歳頃における一度限りの一斉受験という特殊な行事が、長い人生航路における最大の分岐点であり目標であるとする、我が国の社会全体に深く根を張った従来型の「大学入試」や、その背景にある、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を一点刻みに問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行うことが公平であるとする、「公平性」の観念という桎梏
しっこくは断ち切らなければならない。大学入学者選抜は、一時点の学力検査によってその後の人生を決定させるためのものではない。先を見通すことの難しい時代において、生涯を通じて不断に学び、考え、予想外の事態を乗り越えながら、自らの人生を切り拓ひらき、より良い社会づくりに貢献していくことのできる人間を育てることが高等学校教育及び大学教育の使命であり、これからの大学入学者選抜は、若者の学びを支援する観点に立って、それぞれが夢や目標を持ち、その実現に必要な能力を身に付けることができるよう、高等学校教育と大学教育とを円滑に結び付けていく観点から実施される必要がある。
そのためには、既存の「大学入試」と「公平性」に関する意識を改革し、年齢、性別、
国籍、文化、障害の有無、地域の違い、家庭環境等の多様な背景を持つ一人ひとりが、
高等学校までに積み上げてきた多様な力を、多様な方法で「公正」に評価し選抜すると
いう意識に立たなければならない。

⇒ ここで述べられている高大接続改革の意義には大賛成である。「従来型の選抜=公平とする」考えを全否定し、「従来型選抜=科挙=公平・公正ではない」とする改革のコンセプトを力強く訴えている。で、やっぱり、同じ疑問が生まれるんですよね・・・。それなら、なぜ「センター試験⇒共通テスト+記述式+民間英語試験」という議論に矮小化されたのか?

恐らく、現行の試験の課題にフォーカスするあまり、「18歳頃における一度限りの一斉受験という特殊な行事」の異常さよりも、「現行の試験問題をどう進化させるのか?」という方向に議論がずれてしまったように思えます。この点については、中教審の中にいるわけではないのでどういう議論でこうなってしまったのかは私などには分かりませんが、「18歳一発選抜・科挙」という課題の解決は、「高大接続」という視点ではなく、社会のグランドデザインの変更による無効化であるべきだったと思います。どんなに優秀な大学を出ても、使えない人材は切られる(高流動)。しかし、人材としてリカレントの場が保障される(高保障)。つまり解決は試験の変更ではなく、現在の社会をフレキシキュリティの方向へ持って行くこと。

正規・非正規による分断が進み膠着している社会が高流動になれば、そもそも、「学歴そのもの」が無効化される可能性も高い。当然、社会的混乱が生まれるから「高流動」と同時に「高保障」として「生涯の学び」が保障される必要がある。教育の問題を教育だけで解決しようとすることは無意味であるばかりか、非常に非生産的な結果になってしまうのではないか?

ちなみに、仮に日本がフレキシキュリティに向かうとしたら

1)低流動低保障⇒高流動低保障⇒高流動高保障

2)低流動低保障⇒低流動高保障⇒高流動高保障

3)低流動低保障⇒高流動高保障

のどのルートになるのか?ということも話題になりました。

1)の可能性が最も高い、という意見で一致してしまいました。多くの差別的構造が崩壊するには・・・。なんだかやり切れない思いです。

② 2020年7月14日 Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言(経団連)

Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言

まず、財界発信=悪とする考え方は、「民間 vs 公教育」という安易な二項対立にしかならないし、現在の「公教育」においても、学校は多くの民間企業やNPOなどに支えられて存在しているものだという点が話題になりました。

1976年の文科省発信(http://ur0.work/jdZV 中学校に宛てた通達です。高校は含まれていません)には

①進路指導 や学習指導 が模試などの材料に過度に依存した受験指導に偏ってはいけない。
②模試などの業者テストを授業内で扱うのは問題である。
③業者の商行為に教員が関わることはあってはならない。

といった項目が並びます。しかし、現在の多くの学校で「民間」の力を全く頼りにせずにやっていけるのか、を考えると明らかにそうとは言えないのが現状だと思います。模擬試験の校内行事化、センター試験後のデータリサーチといった受験産業活用のみならず、様々な民間の力を借りて学校教育は成り立っています。確かに、教育そのものの「民営化」は教育をpublicなものからprivateなものに変え、新自由主義的な自己責任論を土台に、教育の再配分機能を疎外することは間違いないと思います。そこにはpersonalなものを大切にする視点はない。しかし、かといって、学校の側が「民間」を「業者」と下に見る傲慢な態度もそもそもpublicの存在としての学校から逸脱している思い上がりだと私は感じています。子ども達の教育に関わるべきは学校の教員だけだという特権意識がまだまだ残っているから、「教員免許?なんぼのもんじゃい」という声も時には説得力を持ってしまうようにすら思えます。教員よりもスキルがはるかに高い方々は社会に沢山いるのですから。

私自身は多くの教育関連企業の方々や企業、NPOの方々、時には大学生からも学ぶことも多いし、進路通信やイベントなど助けて頂くことが非常に多く感謝しています。「学校に穴を空ける」ことは、一部「浮きこぼれ」と言われる生徒達の解放のためだけでなく、私たちのような学校現場という狭い世間に生きている大人以外との繋がりを子ども達に持って貰うためにも絶対に必要なことだと思っています。

ですから、Society 5.0という訳の分からないものをもちろん鵜呑みには出来ませんが、経済界から発信される内容についても、まず真摯に向き合った上で、それぞれの課題を発信出来るような姿勢を持つべきだということが話題になりました。

そういう視点で見てみると、

1)中教審・文科省の発信のソースは、経済界である場合が多く、官邸(再生会議)・国大協などの合意の上で「国策化」されていること。

2)その内容については、現代の日本社会が抱えている課題を経済界のみならず多様な有識者の知見も取り入れ見事にまとめていること。

3)「大学において求められる能力からバックキャストして」とあるが、「資本側が求める能力からバックキャストしている」こと。つまり経済界があくまで自己の存在を「教育の外」に置いている点が課題ではないか?ということ。

4)結果、社会の抱えている課題の要因を教育の課題と同一視し改善を求めていること。

5)財界の提示している教育の課題や改善案には「対面」と「オンライン」のハイブリッドも含め学校現場が取り組む価値があるものも少なくないこと。

といったことがあげられます。ここでも、学校は学校として「聖域であるべき」という考えはもちろん大きな間違いですし、かといって「日本社会の課題を子ども達がなんとかしろ」というのはよいとしても(よくないですが)、では「経済界はどう変わるの?停滞の責任、誰にあるの?」「要するに子ども達に変われと言ってる大人はどう変わるの?」「そもそもQOL高めるような人生観は子どもだけでなく私たち大人の側にも必要では?」といったことについては非常に鈍感というか、自分達の存在意義を過大評価してない?という見方も出来るように思います。

私自身まだまだ勉強不足なのでついていけていないことも多いのですが、こうした視点を与えてくれる機会を持てること自体が私は運が良いと思いますし、自分の日常にこうした学びの成果をどう活かすのかに繋げなければと改めて考えさせられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校活動の規制緩和の判断は何を根拠に行うべきか?

学校活動の規制緩和の判断は何を根拠に行うべきか?
非常事態宣言、一斉休校要請により3月~5月の学校活動がほぼ停止した。この判断が正しいのか間違いなのかは分からない。後出しじゃんけんで「必要なかったのでは?」という主張も見られるが安易には賛同出来ないし、かといって、小中高大と一律に休校に踏み切った判断について疑問がないわけではない。特に低学年の子達にとって、「成長の場」そのものが失われたことは重い。いずれにしても、私などは社会の中から見たら、少なくともこの件については(この件だけではないですが)、「飲み屋の素人プロ野球評論」程度のことしか出来ない人間だ。感染症の専門家が出した判断は今後検証されるのだろうが、大きな重圧の中で様々な努力をして下さった方々には敬意しかない。もちろん、科学は常に「反証可能性」について開かれたものであるべきだし、当然結果責任も伴う。未来のためには徹底した検証は期待したい。
6月の再開後、感染者が減少する流れで再開した学校活動は分散登校という段階を経て、中旬以降は規制緩和の方向で動いてきた。
その中で、『学校』から『授業の遅れ』が時間的観点から抽出され夏休みが縮小、オンライン授業も『学びを止めるな、取り戻せ』というスローガンで、『授業の遅れ』を取り戻すことを目的の中心としたものが多かったように思う。
そのことについての議論、反省、改善は今回は一旦置くとして、再び感染者が増加する7月上旬の現在の流れの中で様々な声が挙がっている。
この新規感染者数は4月とは違う。
軽傷者が多く、深刻な医療崩壊は起きない。
今度は学びを犠牲にしてはいけない。
感染者数増加は深刻に受け止め再度学校は休校に備えるべき。いつ一斉休校になってもおかしくないし、学校はオンラインでも動く、いや動くようにしなければならない。
私にはどちらが正しいのか分からない。
ただ、今回は都も国も、3月の時のような要請を今現在行っていない。
このことに不安を抱く子ども達も多いと思うし、大人も同じだ。
「本当に大丈夫なのか?」そういう不安は日を追うごとに大きくなっているように感じる。
こんな中で、果たして、私達は何を根拠に緩和や規制強化の判断をすべきなのか?
楽なんですよね、誰かが指示してくれれば。
けど、子どもの主体性を求める割には、どこのリーダーも『関係者の安全』を方針として口にするけど、周りを見る。それは仕方ないことかもしれない。
判断出来る根拠だって簡単にその辺に転がっているわけではないのだから。
そもそも自分だったらどうするんだ?
学校を休校にすべきなのか、現状を継続すべきなのか、縮小すべきなのか、緩和すべきなのか?
そもそもそれを各学校単位で決定してよいのか、それともそうした情報をもっと持っている国や都の判断を待つべきなのか?
学校でなくとも、組織には人がいて、そこには家族がいて、様々な事情があって・・・。
そうしたことを背負ってリーダーは決断しなければならない。
そう思いながらもグチャグチャと考えてみる。考えなければならないポイントは幾つかある。まず、一口に学校と言っても、小学校と中高では違う。私立と都立ではアクセスも違う。社会全体の中で何が優先順位が高い対面なのかを考えることも必要。その意味で、受験などに特化した観点からの議論はやはり視野狭窄に感じる。受験生も大切。けど、社会全体の中でこの『禍』の中でプライオリティが高いかと言えば、私にはそうとは思えない。もちろん、会社の飲み会とか若者のパーティよりは優先順位は高いと思うけど。
更に、根拠どすべき指標をどうする?
100名超えれば危険、という根拠もない。というか200名超えてるけど大丈夫??
政治的判断に従うということでは、その結果責任はもちろん政策担当者にあるが、それに従ったリーダーにも当然ある。もちろん、この国はそもそもそういう責任を自覚する仕組みになってるかも怪しいけど。
専門家の意見も割れてる。専門家も利用される。責任を負わされるために・・・。たまらないが、その覚悟を持って頑張っている方々は本当に凄いと思う。が、いろんな声が聞こえる。
誰を信じて何を拠り所にするか、それも決断をするリーダーは責任を負わなければならない。
そんな状況の中で、何らかの決断をして、しかもそれを説明し、納得してもらうように努力し、理解されなくても組織を動かさなければならない。
実は、ここ。この「説明し、納得して貰う努力」が最も必要だが、最も難しい。
誰だ、これからの時代は「コミュニケーション能力が重要」とか言ってた奴らは?
今の日本の大半の大人にないことが今回のコロナ禍でバレバレやけど?
私なら、今日、2020年7月10日の段階でなら、とっと、これは流石に書けない(笑)。
ただ、こうした状況での決断や方針転換をスムーズに行うには
□ 最悪の事態を想定し、最低限の実行すべきことが出来る準備
□ 組織内の様々な現場にいる人間との意思疎通が円滑に出来る環境整備
□ 組織内外のあらゆるリソースを活かせる環境整備
□ PDCAではなくOODAで短期的に方針転換が可能なスキーマで動く
といったことが必要。
これが、日本の組織ではなかなか難しいことが多いように感じる。
現場が見えていないリーダーが、現場を知る人間を活用出来ず、訳の分からない使命感なのか
プライドなのか知らんけど、そういうものでトップダウンでことを運ぶ。
多分そんなところが多いんだろうなぁ・・・。
結果責任?一億艘懺悔。繰り返しません、過ちは、で終わり。
圧倒的に少ないリソースで現場を酷使し、酷なパフォーマンスを求める割に、こういうアホなワンマンにめちゃくちゃ甘いのが日本の深刻な病理。
大赤字出しておいて責任もとらず居座りながら、高流動を平気で口に出来る誰かさんが代表かな。偉いんだからお前らとは違うという意識。こうなると老害通り越してクズやな。
あれ?何の話だっけ?
やはり日本社会は、大人の側からきちんと変わらなければならない。
改めてそう思う。
opinionだらけの勝手な言いたい放題でした。
皆様、くれぐれもご自愛下さい。

格差・公平・公正について考える

英語民間試験が共通テストの代替として導入される、というテーマで大騒ぎになった時に、民間試験採用により、「入試の公平・公正」が脅かされ「入試に向かう格差」が拡大する、という声が多く聞かれた。

これは、間違いなく事実としてそうだと今でも思う。共通IDを用いて高校3年生の1年間で2回しか受験出来ないし、そのスコアしか使えないとは言え、高校3年生になる以前の時期には、親の収入により受けられる民間試験の回数は当然変わるし、練習が出来る方が有利に決まっている。

ただ、今年のコロナ危機で、特に各私立大学の入試の発信を見ていると、「格差」「公平・公正」を理由に民間試験反対を叫んでいた人達も含めて、およそ「格差」「公平・公正」を重視しているとはとても思えない。

□ 今年に限り2年間有効スコアのルールを高校1年生を含む3年間と配慮する。

⇒ は?早期に基準クリア出来る生徒はかなり恵まれたアドバンテージを英語学習に対して持っている生徒に限定されますけど?

□ 本年度については、広く民間試験資格も認める。

⇒ は?公平・公正な環境が試験に必要、はどこ行った?自前の試験が出来ない場合の保険?

□ 英語民間試験の資格を持っている生徒については評定がなくても出願資格とする。

⇒ 学校の評定よりも民間試験重視?Affirmative Actionとか関係なし?

□ TOEFL iBT Home Editionの利用を本年度は認める。

⇒ え?それかなりハードル高いけど・・・。

□ オンライン入試実施予定であるが、環境については各家庭で整備を。

⇒ 一次審査は家庭の通信環境ですか?

4月に各所に向かって声を挙げた件については

1)郵便物のデジタル化 ⇒ 一部大学には大変改善頂きました。が、残念ながら一部です。

2)民間英語試験利用中止 ⇒ 文科省が悪いという話をしつつ、自分達で決めたまま変更の可能性やその場合の対応についての発信はしてません。文科省が5/14に求めた配慮についても知らん顔に見える大学様が多いのですが・・・。これで、「文科省があああ」とは言えないのでは?

3)高校3年次の評価・評定・調査書不要 ⇒ 東洋大学など本当に現場に配慮した対応をする大学もある一方で主体性評価についての発信も変えない大学が多いこと・・・。

英語民間試験採用反対派の中には、大学の先生も多数いたと思うのですが、「格差」「公平・公正」の話はどこ行ったのでしょう?

また、自分も含めて本当に視野狭窄だと反省していますが、今回のコロナで困ったのは地方よりも「東京」であることもこれまでと違う点かもしれません。過去の震災で多くの地方の受験生が困った時には、果たして「配慮」がこれほど話題になったかと言えば、残念ながらそうとは言えないように思います。

今回はソースを示してFactとして論じると特定の大学への批判になるのでやりませんが、そもそも、何のために大学入試をテーマに、「格差拡大阻止」「公平・公正を」という正義を叫ぶのか?

入試だけにそんなものを求めても、「公平・公正」な社会は実現せず、「格差社会」もなくならない。もう入試をそんなに大事する価値があるのか?それを守って何が守れるのか?何を守りたいのか?それを守って全体が壊れたら、本当に守れるのか?

結局、入試の公平・公正を守ったところで、この社会自体が保たないのであれば、社会がよくなる仕組みから考える必要があるのではないか?そもそも、一般入試で大学に入る人達が8割を超えていた時代と今とでは大違い。付属校から、推薦、AOから、それが悪い訳ではないけどそれで「ブランド」手に入れて、そのブランド、本当に価値あるの?今の日本でそんなもの保ってて何か得するの?

少し感傷的に今回は書きましたが、Flexicurityに向かうには、社会全体のコンセンサス構築が必要、これは小熊英二さんの受け売りですが、本当にそう思います。が、そんな動きは微塵もないように見える。MMTも結構、21世紀型なんちゃらも結構、未来のなんちゃらも結構。けど、それで本当にどれだけの人がハッピーになるんだ?

リソースとして広く人材を活かすには、科挙はもう時代遅れでしょ、とっくに。

うちの職場でもいますよ、高学歴の老害。学歴なんかたいしたことなくても頑張って凄まじい生産性を発揮してる人材。しかも、仕事や社会で必要なことは常にアップデートしていく。そんな中で、属性でマウント取るしか能が無い連中にもウンザリ。そういう人間の存在が周りの人間の生産性をことごとく潰していくから。

さて、仕事しよ。