平成29年度試行調査問題、国語記述問題について

前回、本ブログでも取り上げたサンプル問題と比較すると
今回の記述問題の課題文は高校生の日常から離れたものではなく
その点では改善されたと言える。
(前回は街の景観問題・駐車場契約などが題材)

http://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00011239.pdf&n=5-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

ただ、問題を実際に解いてみると記述問題として思考力・表現力を
測定するに足るものとは到底思えないし、それ以前に問題として最低限
必要な質を確保しているとも言いがたい、というのが私の印象である。

以下、僭越ではあるが分析してみたい。

【問1】
当該年度に部を新設するために必要な、申請時の条件と手続き を50字以内で答えさせる問題

解法としては冒頭の「青原高等学校 生徒会部活動規約」が解答の材料となる。

この規約にある文言を可能な限り抜き出すと

同好会として3年以上活動し、当該年度の4月第2週までに、所定の様式に必要事項を記 入し、生徒会部活動委員会に提出すること。(60字)

となってしまう。制限字数を10字オーバーする訳である。

模範解答は
同好会として3年以上活動した上で、4月第2週までに所定の様式で生徒会部活動委員会に申請すること。(48字)

となっている。模範解答を分析すると、抜き出しからどのように字数を減らしているかが分かる。

1)活動し     → 活動した上で (+3字)
2)所定の様式に必要事項を記入し  → 所定の様式で (-8字)
3)当該年度の   → カット  (-5字)
4)提出       → 申請  (±0字)
5)読点    → 2箇所カット  (-2字)

東京大学英語の要約問題では、本文を抜き出してそのまま日本語にまとめると制限字数を遥かに超える。
よって、「言葉の圧縮力」が必要となり、そこに「表現力」を試す要素があるのだが、
上記の5点の言葉の「削除」に、個人的には何の「思考力」も感じられない。
特に5)の読点を省略するというのも、「それアリ?」と感じてしまう。

そもそも、「表現力」とうたいながら、解答者が行うのは基本、「抜き出し」に過ぎない。
これが「記述力」と言えるのか、大いに疑問である。

【問3】 空欄(イ)について、ここで森さんは何と述べたと考えられるか、次の(1)~(4)を
満たすように書け。

こちらの問題は、問題として成立していないように思えるが、どうだろうか?

簡単に問題までの流れをまとめると、「部活動の終了時間延長」についての提案をテーマに

生徒1 賛成。個人的にも作品展の前は時間が不足するから。
生徒2 賛成。いつもライバル校にあと一歩で勝てないから。
生徒3 賛成。個人的な思いだけでは提案出来ない。資料はないか?
生徒4 資料②を提示(市内5校の部活動終了時間のまとめ)
生徒5 資料③を提示(新聞部の昨年度の記事)
生徒3 では、資料②と資料③を基に提案を呼びかける。
生徒5 ちょっと待って下さい。提案の方向性はいいと思うのですが、課題もあると思います。(空所イ)
生徒3 なるほど、そう判断される可能性がありますね。では、どう提案するか皆で考えましょう。

問題の詳細はリンク先の問題で確認していただくとして、流れとしては

生徒1.2の個人的Opinion → 生徒3がFactが提案に必要と提案 → 生徒4・5から資料提供

ここまでは自然な流れ。その後、「生徒3が資料②③を基に提案を呼びかけましょう」とまとめるがここで予想されるのは、資料②③をFactとして使いながら、具体的な提案を練っていく流れだが、生徒5はなぜ、「ちょっと待って下さい」と言ったのかが謎である。

恐らく出題者は、「生徒が有利になるはずの資料③の中に、下校時安全確保が延長を認めない根拠だとする教員の意見があり、有利なことばかりではないから、それをどうするか検討しよう」という呼びかけとして発言を作成したのだと思うが、生徒3がFactが根拠であることの必要性を解き、具体的資料が2名から出された後なので、全員がFactを重視して議論するのが自然な流れである。

それを、資料を提供した自分自身が、その流れを断絶し、口を挟むのはどうなのだろう?

そもそも、資料③には突っ込みどころ満載である。

複数回答可とした、「青原高校に求めるもの」の%を全て足すと100%になる。
これ、本当にちゃんとしたアンケートなの?と疑いたくなる。
また、「部活動充実」を求めるとした52.5%(複数回答可なのでMax値)のうち
71.6%が「終了時間の延長」を求めているということは、全校生徒の中で「終了時間延長
を求めている生徒」の割合は37.53%となる。この数値は、「終了時間の延長を求めない
生徒(現状維持・時間短縮を求める生徒)」が相当存在することを必ずしも表してはいないが
過半数には遠く及ばない数値である以上、説得力に欠けるデータと見られる危険性がある。

そう考えて解答を作ろうとしても、出題者の課す条件から、出題者自身が資料の読み取り能力などには関心がないことを忖度して、不自然な流れの会話を資料②と③から作成するしかなくなる。

そもそも、3問ある記述問題のレベルは、恐らく優秀な生徒であれば小学生から中学生初期程度で対応可能だと思えるのだが・・・。

今回のブログでは扱わないが、第2問、第3問の正解とされる各選択肢にも突っ込みどころ満載である。
ただ、こちらは従来のセンター試験レベルよりは、題材は難しいと感じる受験生も多い可能性がある。

このレベルのちぐはぐさも含め、記述問題の開発にはまだまだ課題が多いと思わざるを得ない。

私の意見は従来どおりの試験に戻せということではない。

「受験生に失礼のないものが用意できてから出すべきだ」

と考える。

解答を公表出来ない無責任な対応を続けている各大学の入試問題にも是非メスを入れて欲しい。

そうした改善も行われないまま、見切り発車を行うなら、受験生の受ける被害は多大である!
それだけは絶対に避けてもらいたい!

 

 

 

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アクティヴラーニングを考える 日テレドラマ 「先に生まれただけの僕」第3話を材料に

櫻井翔さん主演の日テレドラマ「先に生まれただけの僕」の中で「アクティヴラーニング」や “Instructional Design”が紹介されていて興味深く視聴させて貰った。

http://www.ntv.co.jp/sakiboku/index.html

私の感想の結論は、

表面的過ぎる内容でAL(アクティヴラーニング)に対する誤解が広がるので、
どうせドラマで取り上げるなら、きちんと取材なり勉強してからにして欲しい。

ということになる。

が、全否定するわけではなく、何が問題点なのかを考えることが有意義だと
感じたので取り上げてみたいと思う。

まずドラマ第3話の中でALにまつわる話の概要は以下の通り。

① 急な退職者が出て、臨時で授業補填をする素人校長の鳴海校長(櫻井翔さん)がALを
数学の授業で実践。「教えるのではなく生徒自身が教え合う」授業運営を試みるが
「全員問題解答」という目標には到達出来ず、失敗したと校長は落ち込む。

② 瀬戸康史さんが演じる英語教師が、「アクティヴラーニング」には必要な方法論があり
それは Instructional Design であるとし、以下の③のような授業を展開する。

③ 二枚の絵を使ったPair Work。There is ~ / There are ~ の文を用いて二人で
英語のやり取りをしながら、お互いに絵の違いを発見していくという活動。

④ 生徒は「授業が楽しかった」と言い、でも「AIが発達して通訳が瞬時に出来る時代が来るのに何故英語を学ばなければならないのか?」という疑問を英語教師にぶつける。

⑤ 少子高齢化、労働人口減少などの要因で日本のグローバル化は避けられず、ネット情報の半数が英語という時代。将来の日本人にとって英語は重要な「生きる力」の1つだと教員は答える。

実は、私自身、田原真人さんが主宰する「反転授業の研究(フェイスブック)」の末席に
加えて頂いている身である。田原さんのように、ALに対して幅広い教養も知識もないが
それでも、ドラマでの扱われ方には深刻な課題が多いように感じた。

まず、①の櫻井校長のAL授業。素人がネット検索から一夜漬けした程度で出来る授業としては
実にリアルに描かれていたように思う。これなら誰でも出来るレベルだ。
だが、当然失敗する・・・。が、本当に失敗なのか?

教員が設定した「目標」に生徒が到達しないことを「失敗」と断じてしまうのは
方法論がどんなものであっても、正しい認識ではない。
教員、生徒両方が「設定目標」に到達しない挫折だって、貴重な「経験」である。
また、「授業」の成功を、「単発の授業の目標到達」で評価することも安易であろう。

ここでは、むしろ、「授業で設定した目標」の妥当性を課題にすべきだったと思う。
「1問解ける=ゴール」という目標設定自体が悪いのではなく、その授業のゴールが
何に繋がっているのかが学習者、教育者に共有されていないことが問題。
だからこそ、最後に生まれる生徒側の疑問、「これが出来て何になるの?」は
必然だと感じた。その疑問の必然性と授業との繋がりこそ本質として描くべきだったのでは?

次に②③の Instructional Design を土台にしたという瀬戸さんの授業について。

③の授業は、中学1年生の英語授業の中で私自身が行ったことがあるもの。
珍しい活動ではなく、準備も実践も簡単だ。
ま、少なくとも、高校2年生の英語授業ではありえない、といったツッコミは置いといて
あれは、ただの「活動」であり、それだけでは「学び」とは言えない。
だから、Active Learningと呼べる代物ではない。
あれをActive Learningだと解釈する誤解が保護者、教員、社会全体に
広がれば、ちょっと大げさだが、日本の教育は崩壊しかねない。

今の生徒たちの中には、「人の話を聞く」のが本当に苦手な生徒が少なくない。
瀬戸さんが演じた授業は、「学問において致命的とも言える人の話を聞けないという欠点を抱えた生徒を寝かせない方法」
であり、あれをActive Learning として広めていくのなら、日本中で「活動あって学びなし」
(元堀川高校校長荒瀬先生の言葉)の授業が蔓延することになるだろう。

何が問題なのか?実はそれを考えることが、ALについての考察を深めることに繋がると考える。

Instructional Design について、私は専門的に学んだことはないが
簡単に言えば、「生徒がActive Learner になる仕掛け」のことだと解釈している。

瀬戸さんの演じた授業の問題点だと私が感じたのは以下の通り。

1)授業の目標設定が明確ではない

⇒ だから最後に「楽しかったけど、何のためにやってるの?」と問われる
2)学習者が目標到達したかどうかの確認がない

⇒ たとえ出鱈目な英語をずっと使っていても修正の機会すらない
3)単発の授業が次の授業とどう繋がるかが見えない

もちろん、日々行っている私自身の授業も欠陥だらけである。
私自身を含む多くの教員が抱える課題とここで挙げた課題は重なるところがあり、
その点については後述するが、ここでは瀬戸さんの演じた授業についてのみ話を進めてみる。

瀬戸さん演じる教員は少なくとも以下の点をまず生徒と共有して授業すべきであった。

□ 活動が、「情報のギャップ」を埋める意思疎通に必要な伝達スキルを鍛える訓練であること。
□ 多少間違った英語でも、英語を発話する機会を持つことが重要であること。
□ 共有するバックグラウンドが大きく、「ギャップ」が極めて小さい同級生にすら伝わらないのであれば、共有するバックグラウンドが小さく、「ギャップ」が大きい外国人との会話では伝わらない。語学力、伝達力に大きな欠陥があることを確認し、それを具体的に改善することが必要であること。

もちろん、上記のような言葉では伝わらないので、そこにも工夫が必要である。

そして、授業でのやり取りを録音するなどして教材化し、何が間違っているのか、伝達法のどこに問題があるのかを明確にして「学び」に繋げることこそが必要である。「やりっぱなし」の授業では、「学び」にはならない。

ここで、現場の課題も明確になる。

仮にフィードバックを実施するなら、一人の会話が3分だとしても、20組(40人クラス)だとそれだけで60分となり聞くだけで1時間が終わってしまう。7組(14人クラス)だと21分。これらを同一授業内で消化するのか、次の授業の教材として活用するのかによるが、フィードバックを実施するなら、これがギリギリの人数だと思う。

イギリスでのTeacher Training プログラムに参加した時、ドイツ、ラトビア、ポーランドなど多くの英語教員と情報交換したが語学の授業で40名を超えるクラスサイズだという日本の現状を話すと、例外なく「信じられない」というリアクションが返ってきた。

また、こうしたフィードバックを含めた授業デザインを実行するには、学期ごとの到達目標などといった大雑把な計画では実行不可能だ。しかし現状、私自身出来ていない。

「ブラック企業化」した、「非本来業務」や「不毛な会議」が増加する現在の学校現場では、可能なのは一部の学校の一部の教員に限られるだろう。ALを叫ぶ教育行政側にその問題意識があるとは思えないのが残念であり大きな問題である。ここを課題として大きく取り上げて欲しかった。ま、ドラマではなくなってしまいますし、ますます視聴率も落ちそうですけどどね(笑)。

さて最後に、④⑤のやり取りについて。
お気づきになった方も多いかもしれませんが
瀬戸先生、全く生徒の質問に答えていません(笑)。

生徒「AIが瞬時に通訳する時代が来るのに何故英語を学ばなければいけないの?」
先生「少子高齢化、労働人口減少、移民増加が必然の時代。ネットの半数の情報も英語。だから学ばないといけない」

先生の答えがトンチンカンであることも問題だが、それより問題なのは
「学ぶ理由が分からない時には学ばなくてもよい」という前提に立って話を
している点で生徒と先生が同じ土俵に立ってしまっている点。

「解なき時代」と言われる時代に教育は変わらなければならないと語る教育関係者は多いが
「解なき時代」なら(いや今だけでなく昔からそうだが)、「何故学ぶのか?」の解など
どこにもないことこそ伝えておかなければならないのではないか?。

「そんなこと私にも分からない。その答えは私も君たちも自分で創るんだ。甘えるな!」

それだけで良かったと私は思う。

ちなみに、瀬戸先生の解答は、近年教育行政に口を出している「経済界の言い分」そのものであり、そこにもぞっとする気持ち悪さを私自身は感じてしまった。

だから、入試問題がSPI化することに何の問題も感じない教育関係者が多いのだろう。

いずれにしても、ただのドラマのエピソードだったが、私としては考える材料を提供して貰えたことに感謝したい。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

調査書は廃止すべき

2020年教育改革の一部として
調査書の大幅変更が検討されている。
学力一辺倒ではない入学者選抜を行う、ということには反対しない。
だが、なぜそれが「調査書の変更(記載事項の増加)」になるのか、意味が分からない。
複数の有名私立難関大学の広報長にお尋ねしたところ、『入試における選抜の参考資料として調査書内の教員所見は見ていない』との回答を得た。
それはそうでしょうね。
評定の価値だって高校のレベルによってバラバラ。
教員の主観などを点数化すれば大問題。
しかし、これまで長い間、そんなことは薄々分かっていながらも、現場の多くの教員は調査書の所見欄を埋めるのに莫大な時間を費やしてきた…。
関係ないと分かっていながら、合格して欲しいという気持ちで必死に書いてきた。
大学関係者はそれをどう思っているのだろう?
そう言われるのが嫌だから、『参考にはしてます』とコメントする大学関係者がいるなら、心の底から軽蔑しますね。
他人に無意味な無駄を強要する人間が、社会を悪くするたちの悪い人間だと私は考えますので。
必履修科目の単位が取得されているかどうかの確認なら、評定と出欠さえ分かれば十分なはず。
あとは、選抜する大学関係者の皆さんが、合宿でも何でもやって直接本人を見て頂けませんか?
ちなみに、調査書を書くだけではなく、調査書の打ち出し、折り、袋詰め作業も教員の業務、既卒生の調査書の打ち出しも教員の業務にしている学校まであることをご存知ですか?
高大接続、高大連携は大いに結構ですが、立場が弱い高校側から見るとこれまでの連携話はパワハラにしか感じられないのですが。
提案です。
① 調査書の所見欄を全て廃止し数値データのみにする。
② 学力試験で見れない本人の素養は大学主催の合宿などのイベントで大学関係者が自分の目で見る。高校教員もそのイベントにobserverとして参加し何が各大学で求められているのか確認出来るようにし、その上で有機的な高大接続を高校・大学で検討する機会を作る。
あるいは、大学関係者が高校の授業をプロ野球のスカウトのように見学し、日常授業への取り組みを見て将来性を評価する。
いかがでしょう?
ついでに言っておくと、高校受験における「内申書」も30年以上前から止めて欲しいと思っている。
「公」を軽んじて、「エゴ」をむき出しにし受験の為にのみ学習するような学生とそれを肯定する保護者を縛るためのツールとして使われてきたのかもしれないが、それには別の対応を行うべきだ。
逆に学校側からの「脅し」として使われたケースを身内の実体験として知っている。
「行事で〇〇係をやらなければ内申書は悪くなるぞ」
いずれにしても、「学力以外」の要素を評価するような代物とはとても思えない。
お題目だけ立派。
上手くいかないのは現場が悪い。教員、生徒、親のいずれかに問題がある。
違うでしょ?
現場も知らず、理解しようともせず、それなのに、「偉そうなこと」を言う「部外者」が余計なことをするからいつまでたっても「教育」がよくならないのでは?
Opinionです。「怒り」にまかせて書いてみました。

 Fact と Opinion 社説を題材に実践

Critical Thinkingの重要なスキルとして
FactとOpinionを見分ける能力がある。

今回は実際のマスコミ報道を題材に実践例を
紹介してみたいと思う。

まずは最近の読売新聞の社説より。

タイトルは「ラスベガス乱射 銃規制強化できぬ米国の病弊」とある。

戦場で使われるような殺傷能力の高い武器が、観光地の繁華街に簡単に持ち込まれて、
大惨事を引き起こす。米国は、この異常な事態をいつまで放置するのか。
米ラスベガス中心部で64歳の男が、ホテルの32階の部屋から眼下の野外コンサート会場に向けて、銃を乱射した。死傷した聴衆は約600人に上った。米国史上、最悪の銃撃事件である。衝撃的なのは、大量のライフルなどの銃器や弾薬、スコープ(照準器)、銃を固定する三脚が部屋から見つかったことだ。

連射能力や命中率を高めるため、銃器は改造されていた。大量殺人を計画し、周到に準備していたのは間違いない。警察やホテル側が、多数の武器の移動をチェックできなかったのは問題だ。

容疑者は、警察が踏み込む前に自殺したとみられる。テロ組織や過激派との関係はなく、単独犯だという。捜査当局は、動機などの全容解明を急いでもらいたい。

米国では銃の購入は容易で、約3億丁が出回る。国民1人当たり、1丁の計算になる。短時間で大量発射できる攻撃用銃器の製造を禁じる法律は、1994年に10年間の時限立法で成立した後、2004年に失効した。乱射事件は日常的に起き、不特定多数が集まる「ソフトターゲット」が狙われる例も目立つ。小学校で多数の児童が犠牲になり、連邦議会議員が重傷を負っても、銃規制の強化は進まない。

トランプ米大統領は、踏み込んだ発言を控えている。昨年の大統領選では、「全ての米国人が家族の安全を保つ権利を守る」との立場を示した。銃規制に反対し、強大な影響力を持つ全米ライフル協会は、トランプ氏を支持する。議会も、保守派の共和党が多数派を占める。

保守派は、1791年に憲法に追加された武器所持の権利条項を規制反対の論拠とする。独立戦争や民兵を踏まえた当時の規定を、軍と警察組織が整備された現代の先進国で、護身用の武装の正当化に援用するのは無理がある。時代の変化に即した議論を始めるべきだろう。

大量殺傷能力を持つ銃器の流通を放置すれば、過激派やテロリストに悪用される可能性が大きい。極めて常識的な問題提起と保守派の主張は噛かみ合っていない。

残念ながら、銃規制の厳格化は望めまい。社会の分断が一段と深まることも懸念される。米国の病弊と言えよう。

2017年10月05日 06時06分
(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20171004-OYT1T50113.html)

 

ちなみに社説とは「新聞・雑誌などで、その社の責任ある意見および主張として載せる論説」(デジタル大辞泉)のことである。

アメリカ国内における銃の犠牲者となった日本人も過去に出ており、
人種、国籍を問わず多くの悲劇が生まれたことを考えれば
今回の問題は決して人事ではないし、記事そのものを妥当な問題提起であることに異論はない。筆者の怒りや意見を私自身も共有するものである。

ただ、文章を読む時には、「全てを正しい」と読んでしまい
活字に操られてしまうことを避けなければならない。

そこで重要なのは、それぞれの文章がFactなのか、Opinionなのかに
注意をして読むという姿勢と、その区別を有機的にそれぞれの読者の
主観による判断に活かしながら文章を消化するスキルである。

英米では小学生から重視され訓練されるCritical Thinking Skillであるが
日本ではまだ十分な認知も教育もされていないように感じる。

また、「思考力訓練」と称されるFactとOpinionの区別訓練も
「区別」の後の重要な活動(具体的にどう使うか)までは含んでいない
ものが多い点も課題ではないか?

もっとも、そうした教育を受けているはずの人材の中にも好戦的で
他者の痛みに鈍感で、エゴの塊のような人間が多いのなら、必要な教育は
別にあるのではないかとも思うが・・・。

さて、抽象論に終始しても仕方がないので
今回の社説を Fact or Opinionの姿勢を持って読んでみよう。

ア)戦場で使われるような殺傷能力の高い武器が、観光地の繁華街に簡単に持ち込まれて、大惨事を引き起こす。
イ)米国は、この異常な事態をいつまで放置するのか。

→ ア)は一見Factだと思われるが、「簡単に」の箇所はOpinionであり、「主観」。
「どの程度簡単だったのか?」については、説明がないので、詳細を検討する必要があ る。カジノを持つ観光地の警備体制が「他と比べて」それほど弱かったのかどうか?
場合によっては、「ラスベガスですら」こうした惨事が起こるという話なのかもしれない。ちなみに産経新聞の社説ではラスベガスの歴史について触れ、ラスベガスで今回の事件が起きた意味をさらに深く考察しているように思える。

ラスベガスはマフィアに牛耳られながら、ギャンブルの街として発展していく。
80年代に入ると、そのマフィアも一掃され、治安も格段によくなった。
現在では、年間観光客が4000万人を超える、家族で楽しめる街に生まれ変わった。
その中心街にある屋外コンサート会場におびただしい数の銃弾が撃ち込まれ、59人が命を失った。逃げ惑う観客をあざわらうような犯行は、マフィアも顔負けの非道である。
米国での史上最悪の銃乱射事件は、観光都市のイメージに大打撃を与えそうだ
(産経新聞社説 10/4)

イ)もFactに見えるが「異常な」「いつまで」「放置する」といった言葉の使い方に筆者の感情が多分に含まれるOpinionである。事件への「怒り」はもっともだが、事件の悲惨さによって「放置しているのかどうか?」を決めることはLogicalではない。

繰り返すが、「あってはならないことが起きた」ことに対する「怒り」は正当だと私も判断するが、それについての記述が全て正しいことでFactであると考えてしまっては事象を誤って認識し適切な対応が取れないことになってしまいかねない。それを避けるためにもFactとOpinionの区別をしながら文章を読む姿勢が必要なのである。

ウ)米ラスベガス中心部で64歳の男が、ホテルの32階の部屋から眼下の野外コンサート会場に向けて、銃を乱射した。
エ)死傷した聴衆は約600人に上った。
オ)米国史上、最悪の銃撃事件である。

→ この3つの文はFactとして基本的には問題ない。

ただしオ)は統計で確認されるべき内容。厳密に言えばOpinionになる。
「Factとはソースが明らかな情報のこと」とかえつ有明の山田先生もご指摘になっている通り  この情報が仮に間違っていたとしても、ソースさえ明らかになればFactとなる。

ソースを明示することによって読み手に確認出来る手段を与え、その真偽の検討を可能にするという書き手の責務をきちんと果たすのがCritical な文章である。そういう意味でオ)はFactと判断するには弱いとも言える。
カ)衝撃的なのは、大量のライフルなどの銃器や弾薬、スコープ(照準器)、銃を固定する三脚が部屋から見つかったことだ。

→ 「衝撃的」というのは「主観」であるが、恐らく多くの別の主観の共感を得られるレベルの話だろう。こうしたケースでは、Opinionだから「事実」ではない、と判断しても個人的には意味がないように思われる。
ただ、「大量の」が具体的にどのくらいの量なのかについては、今後の対策を考える場合に正確に把握しておく必要があるだろう。その確認がなければOpinionに過ぎない表現になってしまう。

他社の社説では数値をあげているものもある。

(毎日新聞)ライフルなど高性能の銃を20丁以上持っていた。容疑者宅の捜索では19丁の銃器や爆発物が見つかったという。
(朝日新聞)ホテルの部屋に23丁もの銃があり、自宅からも19丁の銃や数千発の銃弾、爆発物などが見つかったことだ。

報道機関の責任として、こうした数値を調べて報道することは最低限必要な態度だと個人的には思う。

キ)連射能力や命中率を高めるため、銃器は改造されていた。
ク)大量殺人を計画し、周到に準備していたのは間違いない。

→ キ)はFact。ク)はOpinionであるが、カ)キ)のFactをEvidenceとして持つかなり説得力のあるOpinionとなっている。

ケ)警察やホテル側が、多数の武器の移動をチェックできなかったのは問題だ。

→ この文章が個人的には最も引っかかった。警察はともかく、ホテル側が武器移動のチェックを日常業務の中でこなすことが出来るだろうか?旅行客の手荷物検査をホテルが行ってよいのか?プライバシーの問題になる。

また日本国内のテロ対策でも言われることだが、新幹線への武器の持ち込みなどのチェックは利便性が大幅に低下するという犠牲を払う必要がある。安易に「想定外」を事後に繰り返す無責任な姿勢も問題だが事後に他者を責めるだけでも問題は解決しないし、場合によっては別の問題を新たに生み出す可能性もある。

リスクよりコストを重視すべきではないと思うが、リスク判断は事後ではなく事前に出来なければ意味がない点でもシビアだ。このあたりは高度な判断を責任ある立場の人間がやるしかないだろう。

コ)容疑者は、警察が踏み込む前に自殺したとみられる。
サ)テロ組織や過激派との関係はなく、単独犯だという。
シ)捜査当局は、動機などの全容解明を急いでもらいたい。

→ 最近の日本のマスコミの記述に多い曖昧な表現。
ソースが明らかになっていないのでコ)サ)はFactとは言えない。
シ)は個人の願望でOpinionだがEmotionのレベル。

ス)米国では銃の購入は容易で、約3億丁が出回る。
セ)国民1人当たり、1丁の計算になる。

ス)は「容易」がOpinion。ただ数値によってFactとなる。
セ)はFact。単純な計算。

ソ)短時間で大量発射できる攻撃用銃器の製造を禁じる法律は、1994年に10年間の時限立法で成立した後、2004年に失効した。
タ)乱射事件は日常的に起き、不特定多数が集まる「ソフトターゲット」が狙われる例も目立つ。
チ)小学校で多数の児童が犠牲になり、連邦議会議員が重傷を負っても、銃規制の強化は進まない。

ソ)はFact。
タ)は「目立つ」という表現からOpinion。他の具体例も字数が制限されていなければ欲しいところ。
チ)は「多数の」「進まない(主観)」という表現からOpinion。

ツ)トランプ米大統領は、踏み込んだ発言を控えている。
テ)昨年の大統領選では、「全ての米国人が家族の安全を保つ権利を守る」との立場を示した。

ツ)も「踏み込む」という行為が何と比較してなのか曖昧でOpinion。
テ)は論理的な繋がりが曖昧。

ト)銃規制に反対し、強大な影響力を持つ全米ライフル協会は、トランプ氏を支持する。
ナ)議会も、保守派の共和党が多数派を占める。

ト)は「強大な影響力」がOpinion。
どの程度の影響力なのか、具体的にどういう影響を持つのか?
また、協会がトランプ氏を支持していることと、ツ)との因果関係を示唆するような言い方になっているが、それが事実なのかどうかもEvidenceに基づいているとは言えない。
ナ)はFact。

ツ)~ナ)については経緯を含め、朝日新聞・毎日新聞の記事の方が優れていると思われる。ただ、両者を比べてみると興味深い違いも見えてくる。

 

(朝日新聞)
米国の銃規制の取り組みは、頓挫を繰り返してきた。
クリントン政権時の94年、半自動小銃の製造と販売を禁じる時限立法が成立したが、
ブッシュ政権下の04年に失効した。

12年に26人が死亡したコネティカット州の小学校での事件を機に、
オバマ政権は自動小銃の規制強化と購入者の犯罪履歴確認の厳格化をめざしたが、法案は上院で否決された。

その後も昨年にフロリダ州のナイトクラブで49人が死亡するなど悲劇は続いたが、
銃の権利を擁護する特定の政治圧力は根強い。
近年は、乱射事件が起きるたびに銃の売り上げが急増する現象も続いている。

(毎日新聞)
米国では乱射事件が後を絶たない。昨年はフロリダ州のナイトクラブで49人が死亡し、
2012年にはコネティカット州の小学校で子供ら26人が犠牲になった。
昨年、購入者の審査を厳しくする銃規制策を発表したオバマ大統領は、5年前の小学校の事件に言及して涙を流した。

朝日がTime Orderに沿って記述しているのに対し、毎日は昨年(2016)→2012→(2016)とOrderに沿った記述になっていない。
どちらが読みやすいかは一目瞭然だろう。Time Orderを意識した表現もCritical Thinking Skillの重要な1つであるが、ここでは詳しく触れない。

ニ)保守派は、1791年に憲法に追加された武器所持の権利条項を規制反対の論拠とする。
ヌ)独立戦争や民兵を踏まえた当時の規定を、軍と警察組織が整備された現代の先進国で、
護身用の武装の正当化に援用するのは無理がある。
ネ)時代の変化に即した議論を始めるべきだろう。

ニ)はFact。ただ、保守派=共和党と大雑把に括ってよいかは疑問。アメリカの政治の実情を認知しておく必要がある。ちなみにこのあたりの事情はLA Timesの以下のサイトで詳しく論じられている(山田先生より情報ご提供頂きました)。

http://www.latimes.com/opinion/op-ed/la-oe-waters-second-amendment-constitution-gun-control-20171013-story.html

ヌ)ネ)はOpinionであるが、比較対照法を用いて説得力は感じる。

ノ)大量殺傷能力を持つ銃器の流通を放置すれば、過激派やテロリストに悪用される可能性が大きい。
ハ)極めて常識的な問題提起と保守派の主張は噛かみ合っていない。

ノ)はOpinion。過去の事例を提供出来れば説得力は上がる。

ハ)は「極めて常識的な問題提起」がOpinionだが、それより「保守派」が誰を指すのかが曖昧な点が気になる。

ヒ)残念ながら、銃規制の厳格化は望めまい。
フ)社会の分断が一段と深まることも懸念される。
ヘ)米国の病弊と言えよう。

 

今回の社説が最も弱いのが最後のこの部分。ヒ)フ)ヘ)はOpinionだが、論理的な繋がりが不明。文章を書いていて筆者自らが疲れてしまったのか?筆者は何を主張したいのか?

「アメリカのことに日本が口を出してもどうせ聞く耳持たないだろう。ここで言ったって、無駄な遠吠えになる。それが分かっているから、シニカルに文章をまとめるか」

と考えたのかもしれない。ただ、こうした「上から目線」が「社の責任ある発信」であるとは私は思えない。主張が通る、通らないは別として、明確に言うことは言う。そうあって欲しい。

ちなみに、各新聞の社説は以下のように主張を明確に出している。

(朝日新聞)
米国を尊敬される国にするというなら、トランプ氏はこれ以上、野蛮な銃社会を黙認してはならない。 米国民と世界からの訪問客のために、銃規制の強化と取り締まりに動くべきだ。
(毎日新聞)
共和党のトランプ大統領は、事件に関する声明で銃規制には言及しなかった。 だが、01年の米同時多発テロ後、国内外でテロ対策に神経をとがらせてきた米国は本来、 銃規制にも本気で取り組むべきである。

(産経新聞)
動機が何であれ、事件を引き起こしたのは、銃が簡単に手に入る社会の構造である。
さすがに銃規制を求める声が強まりそうだ。
もっとも、武器を保有する権利を保障する憲法と、強力な政治力を持つ全米ライフル協会(NRA)が、 その前に立ちはだかる。NRAは銃乱射事件が起こるたびに、むしろ自衛のために銃が必要だ、と主張してきた。
何百メートルも離れたホテルの32階から無差別に撃ち込まれる凶弾に対して、銃が守ってくれるはずがない。

産経新聞は主張が明確とは言えないかも知れない(他所の国のことだから、という遠慮?)が、読売とは違い論理的に反論を封じる形で文章を結んでいる。
以上、社説を[OpinionとFact]に注目して分析してみた。

銃規制や法律の知識などに乏しいので、その点間違いなどがあればご指摘、ご教示いただければ幸いである。
また、社説という「重大な責任」を伴う仕事を日々こなしている方々のご苦労にも敬意は持っているつもりである。
「代わりにお前が書け」と言われれば、そんなことは無理なので。
(ただ、この「文句があるなら自分がやれ!そうでないやつはただの学者・評論家だ」という殺し文句が日本を劣化させている気はしますね。そんなことが許されるなら全ての仕事でそれを言ってよいことになる。「改革が必要?自分がやってから言え」「社長命令?平社員やってから言え」でもいい訳ないだろう…)

記事を最初に読んだ時に感じたのは大きな悲劇に対する怒りややり切れなさは伝わってくるが、問題解決に繋がる現状分析や具体策が提供されているとは思えない。というものだった。その根本的な理由が、FactとOpinionについての意識不足にあるように思えてならない。

New York Timesの以下の記事と比較してみると日米の違い(差)がよく分かる。
もちろん、米国のメディアが上で日本が下ということを言いたいのではないが、Factをより意識してOpinionを展開している点は流石だと感じてしまう。

If there is any bright spot it is that little more than a third of American households own a gun now, compared with 50 percent in earlier decades.
Still, this has driven the industry to try to sell more guns to fewer Americans, from battlefield-type weapons to the concealed-carry pistols marketed as stylish
vigilante accessories. According to a 2015 study by Harvard and Northeastern Universities, 3 percent of American adults own half the nation’s guns ? averaging a
startling 17 guns apiece.

→ 数字の効果的な使い方、ソースを明示する姿勢

The Las Vegas shooter was one of these hard-core arsenal owners. He stockpiled dozens of weapons, apparently with no one, and no law, to question the practice
or his rationale. The government should be asking how he was able to do this, and how it could have been prevented. To the nation’s continuing sorrow, however,
it’s clear little can be expected of the president and congressional leaders as time goes by and the next mass shooting draws nearer.

→ 前段を受けて最終段落では論理的に主張を展開する。最後は挑発的な皮肉で締めくくる。

最後に日米のこの点について、かえつ有明の山田英雄先生から貴重なご指摘を受けたのでご紹介して終わりにしたい。

日本人は読み手の責任や能力が問われる傾向にあるように感じています。つまり、書いてあることが分からないのは あなたの勉強不足が原因。(上から目線だからこんな社説でも平気でいられる?) しかし、アメリカでは、書き手の責任が常に問われるよう、教育をされています。つまり、論証の責任を負うのが 書き手であり、読み手はそこを突っ込む。だから引用は明確に記す。論証できないことは言わない。

それでも一緒になって感情的になり、大切な事実を見落とすこともあります。ポピュリズムたるゆえん。 だから、これを防止するための教育が必要、つまりは民主主義を守るための国民教育が必要、となります。

学校選択指標に思う

東大合格者数のランキング上位を公立学校が独占していた時代の学校選択指標は非常に分かりやすかった。
アクセスと中学校での成績で選択肢が限られていた為、公立学校の序列がそのまま学校選択指標であった。

選ぶ側に自由がない訳ではないが、与えられた諸条件でほぼ決まってしまうので、「選択」の余地はあまりない。

そうした状況が一変するのが、公立高校凋落の頃。
公立学校が荒れたこともあり、都市部を中心に私立台頭の時代が来る。
特に大学受験が激化した1980年代後半あたりから中高一貫校の人気が高まった。
要するに公教育への批判票として私立が伸びた。

この時期の学校選択は

① アクセス:通学可能圏内
② 大学進学実績
③ 中学入口偏差値
④ 口コミ評判(特に近親者)

の4つ。

『公立は水道の水。私立は井戸の水』といった表現で私立人気の秘密をまことしやかに語る私立学校関係者もいたが、選択指標が大して変わらなかったことから見ても、『荒れた公立』『放任の公立』への批判票が私立に流れたに過ぎない。

いずれにしても、選択指標の②や③は分かりやすいし、
④もEvidenceを伴うFactというよりは幾つかのOpinionによる判断だったように思う。

しかし、2000年前後から私学の理念の再生や改革というKey Wordとともに学校側のPRの形が変わってきた。

もちろん、少子化による生徒の奪い合いが背景にあるが、それだけではないように思う。

特に2000年前後によく言われるようになったのがSI(School Identity)である。

「どういう生徒を育てたいのか?」
「学校全体に浸透している理念や教育成果は何か?」

進学実績や入口偏差値を判断材料としながらもそこに大差がなければ、何によって学校を選ぶのか?
それに対する答えとして、「育てたい生徒像」「教育理念」などを骨子にしたSchool Identityが強調されるようになる。

SIは少子化を背景に自然発生的に生まれてきた、と思われる方も多いかもしれないが、私の見方はちょっと違う。

2000年前後から、学校の広報の大きな役割を持つものとしてホームページが積極的に活用されるようなった。
この影響はすさまじく大きいと私は思う。

つまり、「ホームページで表現された時に魅力的に見える学校」であるために必要なのが、
School Identityだったということだ。

暴論に聞こえるかもしれないが、テクノロジーが社会を変化させる例はホームページだけではない。
TVの登場により、アメリカ大統領選の本質が変わりケネディー大統領誕生の大きな力になったことはよく知られている。

ホームページという媒体で学校を見て貰うようになり「断片的な情報の集積」としての学校像ではカッコがつかないから「理念」やSIが「断片」をまとめるものとして必要になった、と私は見ている。

もちろん、そうではない学校があることも否定しない。

学校という組織は今でも「一国一城の主」的なそれぞれの聖域で勝手に仕事をする教員が少なくない。

保護者は学校に預けているのであって、ある特定の教員に預けている訳ではないのだが
教員の側は傲慢にも、そう考えず自分の聖域で個人的価値観を基に教育をしている。
そんな教員ばかりではないが、そういう教員も多いということである。

それは私を含む現場の教員の思い上がりにも原因があるが、組織としての学校が経験と理念を共有し、SIを構築するのは非常に難しいことにも理由がある。特に宗教系の学校でなければ至難の業だ。

本来なら、リーダーを中心に、各々の教員の日々の教育経験や価値観を共有、議論し、
その結果出来上がるべきSIが「ホームページ、すなわち魅力的なPRに必要な要素」だから
前面に出て行く…。

こうした本末転倒な状況が多くの学校の実情ではないかと思うがどうだろう?

さて、それはともかく、SIが明確になり、学校選択指標の中に入ってきたことにより
学校を選ぶ保護者の側は

「ここに入れたら何をしてくれるのだ?」
「ここに入れたらどう育ててくれるのだ?」

といった問いを持つことになる。

こうした学校選択指標の変化は、日本の教育における進化なのだろうか?

最近では

①アクティヴラーニングをやっているのか?
②グローバル対応はどの程度進んでいるのか?
③語学教育は充実しているか?
④キャリア教育は?

といった選択指標が大学の説明会ですら語られる。

説明だけ聞いているとどの大学なのか分からいくらい、どこも②③④を中心に
パワポで説明をする。

学校が時代に合わせて変化しなければならないこと
教員が時代に合わせて学び変化しなければならないこと

これは正しい。

しかし、宣伝時に表面に出てきている「学校の変化」ほど
学校も教員も実は変わっていないように思える。

そんな中で選択指標が一人歩きし、新しい時代に必要だとされる
キーワードだけが連呼される空気の中に私は進化を感じることは出来ない。

「6年間でわが子がどうなるかなんて、入れる時に見える訳がない」

と考え、成長出来るコミュニティーなのかどうかを学校を実際に見学して
見極めるしかないのではないか。

合わなければ他の選択肢を探せばいい。

そもそも人材は育てられるのではなく、育つものだ。

もちろん、関わる教員も保護者も「良い」と思うことを
全力でやるべき。

組織としての学校に、それなりのコンセンサスがあって教育していることも必要。

新しい取り組みも当然必要。
(成果も見えないのに安易に飛びつく風潮はまずいが)

だが、人に教わって身につくことなどスタート段階のものに過ぎない。

いろんな失敗をして、挫折も味わって、いろんな刺激を受けて
若い子達には伸び伸びと成長していって貰いたい。

ぬるま湯につかっていたり、楽をしていたら「喝」は入れますけどね。

 

 2020年教育改革に望むこと

ご無沙汰しています。

育児に追われていつの間にか半年更新してませんでした。

久々に投稿させて頂きます。

「平成の教育改革に望むこと」と「学校・教育について徒然に」書きます。

一方的に何かを望むことは無責任だし
「自分にやれることをやる」というスタンスは
変えるつもりもないが、「教育改革」とやらを
進める当事者ではないので、現状、「望むこと」しか出来ない。

もちろん、「改革」を行う方々には相当のご苦労があることには理解と敬意を持って以下述べたい。

大学入試が変わる。
結構なことだ。

解答・解説・概評すら公開しない今のやりっぱなしの
大学入試が、「求める人材像」の発信の一環として
問題の解答・解説・概評などを公開してくれることを望む。
こんなことは最低限の礼儀だろう。
偉そうに言う前にこれすらやれないのなら
全ての発信内容が単なるお飾りにしか見えない。

もっと言えば、学生が「どのような教育を受けてきたのか?」ではなく
「どのように何を学び考えてきたのか?」を重視し評価する作問を望む。

先日公開された新テストのサンプルを見る限り、申し訳ないが個人的にはそうした姿勢を感じなかった。「公の為には個人を犠牲にしなければならない時もある」という命題自体は正しくないとは思わないが、あのテーマで、あの題材で、あの問題!?

http://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00009385.pdf&n=%E8%A8%98%E8%BF%B0%E5%BC%8F%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C%E4%BE%8B.pdf#search=%27%E6%96%B0%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88+%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C%27

単に扱いやすいだけの国民じゃないかと感じた。突っ込みどころは満載だが、敢えてこの程度にしておく。

思考力型だ、記述型だ、といったことが話題になるが
「検定教科書」なるものを材料・指針として学習を指示している以上
それらとどのように学生達が関わってきたのかを知ることを
明確な目的にして問題を作成して欲しい。

教科書の中で覚えるべきことは覚えたか?身につけることは身につけたのか?(知識・技能)
教科書の学びを通して、色々な疑問を持ち、自分なりの解を探しながら学んできたのか?(問題意識・課題発見・当事者意識・思考力)
教科書を出発点にしてどこまで世界を広げてきたのか?(生き様)

もちろん、そうしたことを「測定する試験」を作ることは難しい。
でも、多くの人材を輩出してきた大学には、それを望みたい。

そして、それは大学ごとにやるべきだ。
共通テストなど廃止でよいのだ、と言ったら暴論だろうか?

少なくとも今のセンター試験を変えない方が相当マシなように思えてしまう。

さて…

最近、子どもが出来てから、今までとは別の角度から学校や教育について思うことが増えてきた。「これからの学校は子どもに何をしてくれるのだ?」そう思う保護者の気持ちも分かる。痛いほど分かる気がする。まだ本当に痛みを感じるのは、この先かも知れないが…。

でも、それは違う。「教育」は「してくれる」ものではなく、本人が学ぶかどうかが大事。学びのチャンスを与えてくれる場なのかどうか?成長出来る環境なのかどうか?

今の学校で勤務してきて心から思うのは、「生徒達の作る共同体の素晴らしさ」だ。

仮に教員が駄目でも、校舎がぼろくても、目新しい教育をしていなくても(うちが事実そうだと言ってませんよ、念のため)、よい学校は生徒が創るもの。もちろん、教員も子ども達の成長に時に大きく関わるべきだし、関わる努力をすべきだとは思う。それは親も同じ。だが、自分の過去を振り返ってみても、子ども達同志の関わりにより生まれることが一番大きいし重要だ。「あんな奴がいるのか?」「すごい奴だ!負けてられない!」「自分はどう生きるんだ?」そうしたことは「教育」から学んだというより、「場」と「人」から学んできた。

平成の教育改革が、そうした「場」を壊してしまうことがないことを切に願う。

教育改革セミナー 高校はどう変わるか ~次期学習指導要領・高大接続改革から~

元堀川高校校長(現大谷大学教授)荒瀬先生の講演会に参加してきました。

新テスト関係の情報を期待して参加したのですが、その意味では情報量は少なかったです。

ただ、新指導要領の文言解釈ではなく、「新指導要領が実施されるこれからの教育現場はどうあるべきか?」について校長としての経験を交えた組織変革論として、大変興味深くあっという間の2時間でした。お人柄の良さ、人間的魅力、行動力を感じさせるカリスマ性、などとても見習えるものではないですが、よい刺激を頂きました。

Active LearningとはActive Learnerを育てることである。

用語が独り歩きし、「活動あって学びなし」のALが流行する中、知識・技能習得の重要性を強調される荒瀬先生の教育論は、僭越ながら私がこのブログでこれまで何度も強調してきたこととつながっているので大きな共感を覚えました。また、「ICT教育」 <「書く学習」というアメリカの研究結果もご紹介され、従来型の教育を壊してしまった後に失われてしまうものにも十分注意しなければならないと感じました。

他にも多くの知的なお話がありましたが、私が最も心に残ったのは荒瀬先生がキャリア教育について触れられた時にお話になった次のことでした。

キャリア教育では、生徒の自己肯定感を重視した教育が強調されている。これは、生徒を叱るな、褒めろといった単純なことではない。ブラックな環境に置かれている教員が(ブラック環境は現場に甘えた管理職の怠慢でけしからんし、改善すべき問題ではあるけれども)それでも重い体に鞭を打ってでも出勤する時に、自らを支えているもの、「自己有用感」である。

言葉がストン、と心に落ちてきたというか、沁みこんできた瞬間でした。

荒瀬先生の凄さはそういうことなんだ、ということも改めて気づかされました。

人は自分が必要とされていると感じなければ生きていけない。

こんな当たり前のことを、自分自身見失っていなかったか?

管理職の中にも、「お前の代わりなどいくらでもいる」といった人たちが珍しくない最近の日本ですが、「堀川の奇跡」でリーダーを担ったカリスマ校長の神髄はここにあるんだなぁ。

生徒に接する時、同僚に接する時、今までの私にそれがもっともっとあれば…。

人との繋がりを大切にして生きていかなければと強く感じさせられた1日でした。

荒瀬先生、ありがとうございました。

日本人はペシミズムが好き? Critical Thinkingについて考える

吉川 洋著 「人口と日本経済」(中公新書)を読んだ。

「人口減少 ⇒ 労働力人口減少   ⇒ 日本の将来は暗い」
「AI進化 ⇒ AIによる労働代替 ⇒ 労働者の仕事剥奪 ⇒ 路頭に迷う労働者」

こうした短絡的な Causes & Effects を実証的に検証し反論を加えていく本書
からは学ぶべきことが多かった。

著者の主張が正しいのかどうかは、まだまだ勉強不足の私には
判断が出来ないが、少なくとも著者の提示する反証の妥当性を
否定出来ない間は、大きな説得力をもった主張として私には
魅力的に写る。(もちろん現段階でも幾つか疑問点はありますが)

さて、著者の思考姿勢はまさにCritical Thinkingそのものである。

だから Critical Thinkingの能力が必要だ。

それは正しい。

しかし、「人口減=経済縮小」「AI進化=就職難」といった
枠組みを主張する人々が、Critical Thinkingの訓練を受けていない人々で
Critical Thinkingの能力を有していないから短絡的なのだ、と言えるだろうか?

そもそもどちらが正しいかまだまだ分からない。

CTスキルはあくまで道具である。

大切なのはマインド・ハートではないか?

自分が正しいと思っていても、集団に埋もれ集団の力学に支配され
その場の損得を考えてしか行動出来なければ、CTスキルなど
何の役にも立たない。

人口問題やAI問題を悲観的に捉える人々やそれを無条件に支持する人々が多いのは
何もCTスキルの不足だけが原因ではあるまい。(悲観論者が間違いということではありません。鵜呑みにして支持する、あるいは支配される人々が多いということ)

要は、その説を信じたいのだ。
私も含めて、「明るい未来を信じて生きる」方が
厳しくエネルギーが要ることなのだから。

特に日本人は悲観論が好きな気がする。

明るい未来を信じて、バカだと呼ばれることを恐れず
1日1日を大切に生きよう!

それがなければCTなど宝の持ち腐れになってしまう。

「機械が奪う職業」を考える

「AIや機械が仕事を奪う」という脅しにも似た話が
センセーショナルに語られる。

19世紀イギリスで起こったラッダイト運動などと比較し
未来不安に拍車をかけているようにも見える。

ちなみに将来機械が代替し人間の仕事がなくなる可能性が高いと
話題の職業は以下の通り。
機械が奪う職業ランキング(米国)の上位15位を抜粋。
1. 小売店販売員
2. 会計士
3. 一番事務員
4. セールスマン
5. 一般秘書
6. 飲食カウンター接客係
7. 商店レジ打ち係や切符販売員
8. 箱詰め積み降ろしなどの作業員
9. 帳簿係などの金融取引記録保全員
10. 大型トラック・ローリー車の運転手
11. コールセンター案内係
12. 乗用車・タクシー・バンの運転手
13. 中央官庁職員など上級公務員
14. 調理人(料理人の下で働く人)
15. ビル管理人

引用:ダイヤモンドオンライン http://diamond.jp/articles/-/76895?page=2

作業手順を簡単にデータ化、マニュアル化出来る仕事は
AIや機械に奪われていくという予測だろうか。

進路指導を行う教員としとも
考えざるを得ないテーマだ。

私はもっと劇的な変化の可能性を予感している。

それは、人間の将来の可能性をビッグデータから
予想可能と認識しAIが人材選抜を行う未来。

例えば、プロ野球のスカウトや企業の人事採用へのAIの進出だ。

下手をすると入試の世界にもAIが用いられる可能性すらある。

これは同僚との雑談の中で閃いた。
どういうデータに当てはまる人材が
組織の利益を最大化するのか、または、利益を最小化するのか?

入試の結果が良くても伸びない学生

採用面接をマニュアルで乗り切り
入社後生産力が低い社員

人材選抜のあらゆる場で
AIが使われるとしたら?

スカウトが不要になる。

人事課が不要になりコストカット出来る。

もちろんDNAデータの入手などは
人権問題になるので困難(不可能ではない)
だろうが、あらゆるデータを集め
組織に加入後、大きな生産力を発揮する可能性が
高い人材をAIが選抜する未来。

機械には創造的思考力など測れない!

その通りだろうが、
創造的思考でないものは
排除出来る可能性がある。

その方法は、Googleの画像検索など
既に実現している。
それならAIに出来そうだ。

私が恐ろしいと思うのは

人間の能力や可能性が数値化される
ことよりも、数値化不能な要素が
たとえ存在したとしても、排除・疎外される世界が出現することだ。

仮にAIに見抜けない才能や可能性があったとしても、
それを見過ごすマイナスよりも、
人間の判断ミスの方が不利益が大きいと世界が判断したら…。

その先には人間のあらゆる営みがデータに基づいた判断に還元され
AIに任されるような未来があるのかもしれない。

人間に必要なのは?

思考力ではなく、選び生きる意志と勇気

そこにしか、「人間」の創造する「世界」はない。

量子論の世界では、人間の意識が「世界」を変える。
AIには「世界」を変える「意識」は持てない。

そこにしか希望がないように思う。

AMERICAN HOT TOPICS 番組に出演してきました!

iTunesポッドキャスト総合1位獲得!
月間リスナー数20万人突破

初めての経験でドキドキしましたが、お相手のアサシン先生
のお蔭で、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

You TubeにUP されていますのでよろしければ
ご視聴下さい。

何歳になっても初めての経験は緊張しますが
何かにチャレンジ出来るうちは自分を変えることが出来るし
まだまだ生きていける気がしていいですね。

お相手頂いたアサシン先生、呼んで下さったコトバンクのKさんに心から感謝です!