Fact と Opinion 社説を題材に実践

Critical Thinkingの重要なスキルとして
FactとOpinionを見分ける能力がある。

今回は実際のマスコミ報道を題材に実践例を
紹介してみたいと思う。

まずは最近の読売新聞の社説より。

タイトルは「ラスベガス乱射 銃規制強化できぬ米国の病弊」とある。

戦場で使われるような殺傷能力の高い武器が、観光地の繁華街に簡単に持ち込まれて、
大惨事を引き起こす。米国は、この異常な事態をいつまで放置するのか。
米ラスベガス中心部で64歳の男が、ホテルの32階の部屋から眼下の野外コンサート会場に向けて、銃を乱射した。死傷した聴衆は約600人に上った。米国史上、最悪の銃撃事件である。衝撃的なのは、大量のライフルなどの銃器や弾薬、スコープ(照準器)、銃を固定する三脚が部屋から見つかったことだ。

連射能力や命中率を高めるため、銃器は改造されていた。大量殺人を計画し、周到に準備していたのは間違いない。警察やホテル側が、多数の武器の移動をチェックできなかったのは問題だ。

容疑者は、警察が踏み込む前に自殺したとみられる。テロ組織や過激派との関係はなく、単独犯だという。捜査当局は、動機などの全容解明を急いでもらいたい。

米国では銃の購入は容易で、約3億丁が出回る。国民1人当たり、1丁の計算になる。短時間で大量発射できる攻撃用銃器の製造を禁じる法律は、1994年に10年間の時限立法で成立した後、2004年に失効した。乱射事件は日常的に起き、不特定多数が集まる「ソフトターゲット」が狙われる例も目立つ。小学校で多数の児童が犠牲になり、連邦議会議員が重傷を負っても、銃規制の強化は進まない。

トランプ米大統領は、踏み込んだ発言を控えている。昨年の大統領選では、「全ての米国人が家族の安全を保つ権利を守る」との立場を示した。銃規制に反対し、強大な影響力を持つ全米ライフル協会は、トランプ氏を支持する。議会も、保守派の共和党が多数派を占める。

保守派は、1791年に憲法に追加された武器所持の権利条項を規制反対の論拠とする。独立戦争や民兵を踏まえた当時の規定を、軍と警察組織が整備された現代の先進国で、護身用の武装の正当化に援用するのは無理がある。時代の変化に即した議論を始めるべきだろう。

大量殺傷能力を持つ銃器の流通を放置すれば、過激派やテロリストに悪用される可能性が大きい。極めて常識的な問題提起と保守派の主張は噛かみ合っていない。

残念ながら、銃規制の厳格化は望めまい。社会の分断が一段と深まることも懸念される。米国の病弊と言えよう。

2017年10月05日 06時06分
(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20171004-OYT1T50113.html)

 

ちなみに社説とは「新聞・雑誌などで、その社の責任ある意見および主張として載せる論説」(デジタル大辞泉)のことである。

アメリカ国内における銃の犠牲者となった日本人も過去に出ており、
人種、国籍を問わず多くの悲劇が生まれたことを考えれば
今回の問題は決して人事ではないし、記事そのものを妥当な問題提起であることに異論はない。筆者の怒りや意見を私自身も共有するものである。

ただ、文章を読む時には、「全てを正しい」と読んでしまい
活字に操られてしまうことを避けなければならない。

そこで重要なのは、それぞれの文章がFactなのか、Opinionなのかに
注意をして読むという姿勢と、その区別を有機的にそれぞれの読者の
主観による判断に活かしながら文章を消化するスキルである。

英米では小学生から重視され訓練されるCritical Thinking Skillであるが
日本ではまだ十分な認知も教育もされていないように感じる。

また、「思考力訓練」と称されるFactとOpinionの区別訓練も
「区別」の後の重要な活動(具体的にどう使うか)までは含んでいない
ものが多い点も課題ではないか?

もっとも、そうした教育を受けているはずの人材の中にも好戦的で
他者の痛みに鈍感で、エゴの塊のような人間が多いのなら、必要な教育は
別にあるのではないかとも思うが・・・。

さて、抽象論に終始しても仕方がないので
今回の社説を Fact or Opinionの姿勢を持って読んでみよう。

ア)戦場で使われるような殺傷能力の高い武器が、観光地の繁華街に簡単に持ち込まれて、大惨事を引き起こす。
イ)米国は、この異常な事態をいつまで放置するのか。

→ ア)は一見Factだと思われるが、「簡単に」の箇所はOpinionであり、「主観」。
「どの程度簡単だったのか?」については、説明がないので、詳細を検討する必要があ る。カジノを持つ観光地の警備体制が「他と比べて」それほど弱かったのかどうか?
場合によっては、「ラスベガスですら」こうした惨事が起こるという話なのかもしれない。ちなみに産経新聞の社説ではラスベガスの歴史について触れ、ラスベガスで今回の事件が起きた意味をさらに深く考察しているように思える。

ラスベガスはマフィアに牛耳られながら、ギャンブルの街として発展していく。
80年代に入ると、そのマフィアも一掃され、治安も格段によくなった。
現在では、年間観光客が4000万人を超える、家族で楽しめる街に生まれ変わった。
その中心街にある屋外コンサート会場におびただしい数の銃弾が撃ち込まれ、59人が命を失った。逃げ惑う観客をあざわらうような犯行は、マフィアも顔負けの非道である。
米国での史上最悪の銃乱射事件は、観光都市のイメージに大打撃を与えそうだ
(産経新聞社説 10/4)

イ)もFactに見えるが「異常な」「いつまで」「放置する」といった言葉の使い方に筆者の感情が多分に含まれるOpinionである。事件への「怒り」はもっともだが、事件の悲惨さによって「放置しているのかどうか?」を決めることはLogicalではない。

繰り返すが、「あってはならないことが起きた」ことに対する「怒り」は正当だと私も判断するが、それについての記述が全て正しいことでFactであると考えてしまっては事象を誤って認識し適切な対応が取れないことになってしまいかねない。それを避けるためにもFactとOpinionの区別をしながら文章を読む姿勢が必要なのである。

ウ)米ラスベガス中心部で64歳の男が、ホテルの32階の部屋から眼下の野外コンサート会場に向けて、銃を乱射した。
エ)死傷した聴衆は約600人に上った。
オ)米国史上、最悪の銃撃事件である。

→ この3つの文はFactとして基本的には問題ない。

ただしオ)は統計で確認されるべき内容。厳密に言えばOpinionになる。
「Factとはソースが明らかな情報のこと」とかえつ有明の山田先生もご指摘になっている通り  この情報が仮に間違っていたとしても、ソースさえ明らかになればFactとなる。

ソースを明示することによって読み手に確認出来る手段を与え、その真偽の検討を可能にするという書き手の責務をきちんと果たすのがCritical な文章である。そういう意味でオ)はFactと判断するには弱いとも言える。
カ)衝撃的なのは、大量のライフルなどの銃器や弾薬、スコープ(照準器)、銃を固定する三脚が部屋から見つかったことだ。

→ 「衝撃的」というのは「主観」であるが、恐らく多くの別の主観の共感を得られるレベルの話だろう。こうしたケースでは、Opinionだから「事実」ではない、と判断しても個人的には意味がないように思われる。
ただ、「大量の」が具体的にどのくらいの量なのかについては、今後の対策を考える場合に正確に把握しておく必要があるだろう。その確認がなければOpinionに過ぎない表現になってしまう。

他社の社説では数値をあげているものもある。

(毎日新聞)ライフルなど高性能の銃を20丁以上持っていた。容疑者宅の捜索では19丁の銃器や爆発物が見つかったという。
(朝日新聞)ホテルの部屋に23丁もの銃があり、自宅からも19丁の銃や数千発の銃弾、爆発物などが見つかったことだ。

報道機関の責任として、こうした数値を調べて報道することは最低限必要な態度だと個人的には思う。

キ)連射能力や命中率を高めるため、銃器は改造されていた。
ク)大量殺人を計画し、周到に準備していたのは間違いない。

→ キ)はFact。ク)はOpinionであるが、カ)キ)のFactをEvidenceとして持つかなり説得力のあるOpinionとなっている。

ケ)警察やホテル側が、多数の武器の移動をチェックできなかったのは問題だ。

→ この文章が個人的には最も引っかかった。警察はともかく、ホテル側が武器移動のチェックを日常業務の中でこなすことが出来るだろうか?旅行客の手荷物検査をホテルが行ってよいのか?プライバシーの問題になる。

また日本国内のテロ対策でも言われることだが、新幹線への武器の持ち込みなどのチェックは利便性が大幅に低下するという犠牲を払う必要がある。安易に「想定外」を事後に繰り返す無責任な姿勢も問題だが事後に他者を責めるだけでも問題は解決しないし、場合によっては別の問題を新たに生み出す可能性もある。

リスクよりコストを重視すべきではないと思うが、リスク判断は事後ではなく事前に出来なければ意味がない点でもシビアだ。このあたりは高度な判断を責任ある立場の人間がやるしかないだろう。

コ)容疑者は、警察が踏み込む前に自殺したとみられる。
サ)テロ組織や過激派との関係はなく、単独犯だという。
シ)捜査当局は、動機などの全容解明を急いでもらいたい。

→ 最近の日本のマスコミの記述に多い曖昧な表現。
ソースが明らかになっていないのでコ)サ)はFactとは言えない。
シ)は個人の願望でOpinionだがEmotionのレベル。

ス)米国では銃の購入は容易で、約3億丁が出回る。
セ)国民1人当たり、1丁の計算になる。

ス)は「容易」がOpinion。ただ数値によってFactとなる。
セ)はFact。単純な計算。

ソ)短時間で大量発射できる攻撃用銃器の製造を禁じる法律は、1994年に10年間の時限立法で成立した後、2004年に失効した。
タ)乱射事件は日常的に起き、不特定多数が集まる「ソフトターゲット」が狙われる例も目立つ。
チ)小学校で多数の児童が犠牲になり、連邦議会議員が重傷を負っても、銃規制の強化は進まない。

ソ)はFact。
タ)は「目立つ」という表現からOpinion。他の具体例も字数が制限されていなければ欲しいところ。
チ)は「多数の」「進まない(主観)」という表現からOpinion。

ツ)トランプ米大統領は、踏み込んだ発言を控えている。
テ)昨年の大統領選では、「全ての米国人が家族の安全を保つ権利を守る」との立場を示した。

ツ)も「踏み込む」という行為が何と比較してなのか曖昧でOpinion。
テ)は論理的な繋がりが曖昧。

ト)銃規制に反対し、強大な影響力を持つ全米ライフル協会は、トランプ氏を支持する。
ナ)議会も、保守派の共和党が多数派を占める。

ト)は「強大な影響力」がOpinion。
どの程度の影響力なのか、具体的にどういう影響を持つのか?
また、協会がトランプ氏を支持していることと、ツ)との因果関係を示唆するような言い方になっているが、それが事実なのかどうかもEvidenceに基づいているとは言えない。
ナ)はFact。

ツ)~ナ)については経緯を含め、朝日新聞・毎日新聞の記事の方が優れていると思われる。ただ、両者を比べてみると興味深い違いも見えてくる。

 

(朝日新聞)
米国の銃規制の取り組みは、頓挫を繰り返してきた。
クリントン政権時の94年、半自動小銃の製造と販売を禁じる時限立法が成立したが、
ブッシュ政権下の04年に失効した。

12年に26人が死亡したコネティカット州の小学校での事件を機に、
オバマ政権は自動小銃の規制強化と購入者の犯罪履歴確認の厳格化をめざしたが、法案は上院で否決された。

その後も昨年にフロリダ州のナイトクラブで49人が死亡するなど悲劇は続いたが、
銃の権利を擁護する特定の政治圧力は根強い。
近年は、乱射事件が起きるたびに銃の売り上げが急増する現象も続いている。

(毎日新聞)
米国では乱射事件が後を絶たない。昨年はフロリダ州のナイトクラブで49人が死亡し、
2012年にはコネティカット州の小学校で子供ら26人が犠牲になった。
昨年、購入者の審査を厳しくする銃規制策を発表したオバマ大統領は、5年前の小学校の事件に言及して涙を流した。

朝日がTime Orderに沿って記述しているのに対し、毎日は昨年(2016)→2012→(2016)とOrderに沿った記述になっていない。
どちらが読みやすいかは一目瞭然だろう。Time Orderを意識した表現もCritical Thinking Skillの重要な1つであるが、ここでは詳しく触れない。

ニ)保守派は、1791年に憲法に追加された武器所持の権利条項を規制反対の論拠とする。
ヌ)独立戦争や民兵を踏まえた当時の規定を、軍と警察組織が整備された現代の先進国で、
護身用の武装の正当化に援用するのは無理がある。
ネ)時代の変化に即した議論を始めるべきだろう。

ニ)はFact。ただ、保守派=共和党と大雑把に括ってよいかは疑問。アメリカの政治の実情を認知しておく必要がある。ちなみにこのあたりの事情はLA Timesの以下のサイトで詳しく論じられている(山田先生より情報ご提供頂きました)。

http://www.latimes.com/opinion/op-ed/la-oe-waters-second-amendment-constitution-gun-control-20171013-story.html

ヌ)ネ)はOpinionであるが、比較対照法を用いて説得力は感じる。

ノ)大量殺傷能力を持つ銃器の流通を放置すれば、過激派やテロリストに悪用される可能性が大きい。
ハ)極めて常識的な問題提起と保守派の主張は噛かみ合っていない。

ノ)はOpinion。過去の事例を提供出来れば説得力は上がる。

ハ)は「極めて常識的な問題提起」がOpinionだが、それより「保守派」が誰を指すのかが曖昧な点が気になる。

ヒ)残念ながら、銃規制の厳格化は望めまい。
フ)社会の分断が一段と深まることも懸念される。
ヘ)米国の病弊と言えよう。

 

今回の社説が最も弱いのが最後のこの部分。ヒ)フ)ヘ)はOpinionだが、論理的な繋がりが不明。文章を書いていて筆者自らが疲れてしまったのか?筆者は何を主張したいのか?

「アメリカのことに日本が口を出してもどうせ聞く耳持たないだろう。ここで言ったって、無駄な遠吠えになる。それが分かっているから、シニカルに文章をまとめるか」

と考えたのかもしれない。ただ、こうした「上から目線」が「社の責任ある発信」であるとは私は思えない。主張が通る、通らないは別として、明確に言うことは言う。そうあって欲しい。

ちなみに、各新聞の社説は以下のように主張を明確に出している。

(朝日新聞)
米国を尊敬される国にするというなら、トランプ氏はこれ以上、野蛮な銃社会を黙認してはならない。 米国民と世界からの訪問客のために、銃規制の強化と取り締まりに動くべきだ。
(毎日新聞)
共和党のトランプ大統領は、事件に関する声明で銃規制には言及しなかった。 だが、01年の米同時多発テロ後、国内外でテロ対策に神経をとがらせてきた米国は本来、 銃規制にも本気で取り組むべきである。

(産経新聞)
動機が何であれ、事件を引き起こしたのは、銃が簡単に手に入る社会の構造である。
さすがに銃規制を求める声が強まりそうだ。
もっとも、武器を保有する権利を保障する憲法と、強力な政治力を持つ全米ライフル協会(NRA)が、 その前に立ちはだかる。NRAは銃乱射事件が起こるたびに、むしろ自衛のために銃が必要だ、と主張してきた。
何百メートルも離れたホテルの32階から無差別に撃ち込まれる凶弾に対して、銃が守ってくれるはずがない。

産経新聞は主張が明確とは言えないかも知れない(他所の国のことだから、という遠慮?)が、読売とは違い論理的に反論を封じる形で文章を結んでいる。
以上、社説を[OpinionとFact]に注目して分析してみた。

銃規制や法律の知識などに乏しいので、その点間違いなどがあればご指摘、ご教示いただければ幸いである。
また、社説という「重大な責任」を伴う仕事を日々こなしている方々のご苦労にも敬意は持っているつもりである。
「代わりにお前が書け」と言われれば、そんなことは無理なので。
(ただ、この「文句があるなら自分がやれ!そうでないやつはただの学者・評論家だ」という殺し文句が日本を劣化させている気はしますね。そんなことが許されるなら全ての仕事でそれを言ってよいことになる。「改革が必要?自分がやってから言え」「社長命令?平社員やってから言え」でもいい訳ないだろう…)

記事を最初に読んだ時に感じたのは大きな悲劇に対する怒りややり切れなさは伝わってくるが、問題解決に繋がる現状分析や具体策が提供されているとは思えない。というものだった。その根本的な理由が、FactとOpinionについての意識不足にあるように思えてならない。

New York Timesの以下の記事と比較してみると日米の違い(差)がよく分かる。
もちろん、米国のメディアが上で日本が下ということを言いたいのではないが、Factをより意識してOpinionを展開している点は流石だと感じてしまう。

If there is any bright spot it is that little more than a third of American households own a gun now, compared with 50 percent in earlier decades.
Still, this has driven the industry to try to sell more guns to fewer Americans, from battlefield-type weapons to the concealed-carry pistols marketed as stylish
vigilante accessories. According to a 2015 study by Harvard and Northeastern Universities, 3 percent of American adults own half the nation’s guns ? averaging a
startling 17 guns apiece.

→ 数字の効果的な使い方、ソースを明示する姿勢

The Las Vegas shooter was one of these hard-core arsenal owners. He stockpiled dozens of weapons, apparently with no one, and no law, to question the practice
or his rationale. The government should be asking how he was able to do this, and how it could have been prevented. To the nation’s continuing sorrow, however,
it’s clear little can be expected of the president and congressional leaders as time goes by and the next mass shooting draws nearer.

→ 前段を受けて最終段落では論理的に主張を展開する。最後は挑発的な皮肉で締めくくる。

最後に日米のこの点について、かえつ有明の山田英雄先生から貴重なご指摘を受けたのでご紹介して終わりにしたい。

日本人は読み手の責任や能力が問われる傾向にあるように感じています。つまり、書いてあることが分からないのは あなたの勉強不足が原因。(上から目線だからこんな社説でも平気でいられる?) しかし、アメリカでは、書き手の責任が常に問われるよう、教育をされています。つまり、論証の責任を負うのが 書き手であり、読み手はそこを突っ込む。だから引用は明確に記す。論証できないことは言わない。

それでも一緒になって感情的になり、大切な事実を見落とすこともあります。ポピュリズムたるゆえん。 だから、これを防止するための教育が必要、つまりは民主主義を守るための国民教育が必要、となります。

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学校選択指標に思う

東大合格者数のランキング上位を公立学校が独占していた時代の学校選択指標は非常に分かりやすかった。
アクセスと中学校での成績で選択肢が限られていた為、公立学校の序列がそのまま学校選択指標であった。

選ぶ側に自由がない訳ではないが、与えられた諸条件でほぼ決まってしまうので、「選択」の余地はあまりない。

そうした状況が一変するのが、公立高校凋落の頃。
公立学校が荒れたこともあり、都市部を中心に私立台頭の時代が来る。
特に大学受験が激化した1980年代後半あたりから中高一貫校の人気が高まった。
要するに公教育への批判票として私立が伸びた。

この時期の学校選択は

① アクセス:通学可能圏内
② 大学進学実績
③ 中学入口偏差値
④ 口コミ評判(特に近親者)

の4つ。

『公立は水道の水。私立は井戸の水』といった表現で私立人気の秘密をまことしやかに語る私立学校関係者もいたが、選択指標が大して変わらなかったことから見ても、『荒れた公立』『放任の公立』への批判票が私立に流れたに過ぎない。

いずれにしても、選択指標の②や③は分かりやすいし、
④もEvidenceを伴うFactというよりは幾つかのOpinionによる判断だったように思う。

しかし、2000年前後から私学の理念の再生や改革というKey Wordとともに学校側のPRの形が変わってきた。

もちろん、少子化による生徒の奪い合いが背景にあるが、それだけではないように思う。

特に2000年前後によく言われるようになったのがSI(School Identity)である。

「どういう生徒を育てたいのか?」
「学校全体に浸透している理念や教育成果は何か?」

進学実績や入口偏差値を判断材料としながらもそこに大差がなければ、何によって学校を選ぶのか?
それに対する答えとして、「育てたい生徒像」「教育理念」などを骨子にしたSchool Identityが強調されるようになる。

SIは少子化を背景に自然発生的に生まれてきた、と思われる方も多いかもしれないが、私の見方はちょっと違う。

2000年前後から、学校の広報の大きな役割を持つものとしてホームページが積極的に活用されるようなった。
この影響はすさまじく大きいと私は思う。

つまり、「ホームページで表現された時に魅力的に見える学校」であるために必要なのが、
School Identityだったということだ。

暴論に聞こえるかもしれないが、テクノロジーが社会を変化させる例はホームページだけではない。
TVの登場により、アメリカ大統領選の本質が変わりケネディー大統領誕生の大きな力になったことはよく知られている。

ホームページという媒体で学校を見て貰うようになり「断片的な情報の集積」としての学校像ではカッコがつかないから「理念」やSIが「断片」をまとめるものとして必要になった、と私は見ている。

もちろん、そうではない学校があることも否定しない。

学校という組織は今でも「一国一城の主」的なそれぞれの聖域で勝手に仕事をする教員が少なくない。

保護者は学校に預けているのであって、ある特定の教員に預けている訳ではないのだが
教員の側は傲慢にも、そう考えず自分の聖域で個人的価値観を基に教育をしている。
そんな教員ばかりではないが、そういう教員も多いということである。

それは私を含む現場の教員の思い上がりにも原因があるが、組織としての学校が経験と理念を共有し、SIを構築するのは非常に難しいことにも理由がある。特に宗教系の学校でなければ至難の業だ。

本来なら、リーダーを中心に、各々の教員の日々の教育経験や価値観を共有、議論し、
その結果出来上がるべきSIが「ホームページ、すなわち魅力的なPRに必要な要素」だから
前面に出て行く…。

こうした本末転倒な状況が多くの学校の実情ではないかと思うがどうだろう?

さて、それはともかく、SIが明確になり、学校選択指標の中に入ってきたことにより
学校を選ぶ保護者の側は

「ここに入れたら何をしてくれるのだ?」
「ここに入れたらどう育ててくれるのだ?」

といった問いを持つことになる。

こうした学校選択指標の変化は、日本の教育における進化なのだろうか?

最近では

①アクティヴラーニングをやっているのか?
②グローバル対応はどの程度進んでいるのか?
③語学教育は充実しているか?
④キャリア教育は?

といった選択指標が大学の説明会ですら語られる。

説明だけ聞いているとどの大学なのか分からいくらい、どこも②③④を中心に
パワポで説明をする。

学校が時代に合わせて変化しなければならないこと
教員が時代に合わせて学び変化しなければならないこと

これは正しい。

しかし、宣伝時に表面に出てきている「学校の変化」ほど
学校も教員も実は変わっていないように思える。

そんな中で選択指標が一人歩きし、新しい時代に必要だとされる
キーワードだけが連呼される空気の中に私は進化を感じることは出来ない。

「6年間でわが子がどうなるかなんて、入れる時に見える訳がない」

と考え、成長出来るコミュニティーなのかどうかを学校を実際に見学して
見極めるしかないのではないか。

合わなければ他の選択肢を探せばいい。

そもそも人材は育てられるのではなく、育つものだ。

もちろん、関わる教員も保護者も「良い」と思うことを
全力でやるべき。

組織としての学校に、それなりのコンセンサスがあって教育していることも必要。

新しい取り組みも当然必要。
(成果も見えないのに安易に飛びつく風潮はまずいが)

だが、人に教わって身につくことなどスタート段階のものに過ぎない。

いろんな失敗をして、挫折も味わって、いろんな刺激を受けて
若い子達には伸び伸びと成長していって貰いたい。

ぬるま湯につかっていたり、楽をしていたら「喝」は入れますけどね。

 

 2020年教育改革に望むこと

ご無沙汰しています。

育児に追われていつの間にか半年更新してませんでした。

久々に投稿させて頂きます。

「平成の教育改革に望むこと」と「学校・教育について徒然に」書きます。

一方的に何かを望むことは無責任だし
「自分にやれることをやる」というスタンスは
変えるつもりもないが、「教育改革」とやらを
進める当事者ではないので、現状、「望むこと」しか出来ない。

もちろん、「改革」を行う方々には相当のご苦労があることには理解と敬意を持って以下述べたい。

大学入試が変わる。
結構なことだ。

解答・解説・概評すら公開しない今のやりっぱなしの
大学入試が、「求める人材像」の発信の一環として
問題の解答・解説・概評などを公開してくれることを望む。
こんなことは最低限の礼儀だろう。
偉そうに言う前にこれすらやれないのなら
全ての発信内容が単なるお飾りにしか見えない。

もっと言えば、学生が「どのような教育を受けてきたのか?」ではなく
「どのように何を学び考えてきたのか?」を重視し評価する作問を望む。

先日公開された新テストのサンプルを見る限り、申し訳ないが個人的にはそうした姿勢を感じなかった。「公の為には個人を犠牲にしなければならない時もある」という命題自体は正しくないとは思わないが、あのテーマで、あの題材で、あの問題!?

http://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00009385.pdf&n=%E8%A8%98%E8%BF%B0%E5%BC%8F%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C%E4%BE%8B.pdf#search=%27%E6%96%B0%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88+%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C%27

単に扱いやすいだけの国民じゃないかと感じた。突っ込みどころは満載だが、敢えてこの程度にしておく。

思考力型だ、記述型だ、といったことが話題になるが
「検定教科書」なるものを材料・指針として学習を指示している以上
それらとどのように学生達が関わってきたのかを知ることを
明確な目的にして問題を作成して欲しい。

教科書の中で覚えるべきことは覚えたか?身につけることは身につけたのか?(知識・技能)
教科書の学びを通して、色々な疑問を持ち、自分なりの解を探しながら学んできたのか?(問題意識・課題発見・当事者意識・思考力)
教科書を出発点にしてどこまで世界を広げてきたのか?(生き様)

もちろん、そうしたことを「測定する試験」を作ることは難しい。
でも、多くの人材を輩出してきた大学には、それを望みたい。

そして、それは大学ごとにやるべきだ。
共通テストなど廃止でよいのだ、と言ったら暴論だろうか?

少なくとも今のセンター試験を変えない方が相当マシなように思えてしまう。

さて…

最近、子どもが出来てから、今までとは別の角度から学校や教育について思うことが増えてきた。「これからの学校は子どもに何をしてくれるのだ?」そう思う保護者の気持ちも分かる。痛いほど分かる気がする。まだ本当に痛みを感じるのは、この先かも知れないが…。

でも、それは違う。「教育」は「してくれる」ものではなく、本人が学ぶかどうかが大事。学びのチャンスを与えてくれる場なのかどうか?成長出来る環境なのかどうか?

今の学校で勤務してきて心から思うのは、「生徒達の作る共同体の素晴らしさ」だ。

仮に教員が駄目でも、校舎がぼろくても、目新しい教育をしていなくても(うちが事実そうだと言ってませんよ、念のため)、よい学校は生徒が創るもの。もちろん、教員も子ども達の成長に時に大きく関わるべきだし、関わる努力をすべきだとは思う。それは親も同じ。だが、自分の過去を振り返ってみても、子ども達同志の関わりにより生まれることが一番大きいし重要だ。「あんな奴がいるのか?」「すごい奴だ!負けてられない!」「自分はどう生きるんだ?」そうしたことは「教育」から学んだというより、「場」と「人」から学んできた。

平成の教育改革が、そうした「場」を壊してしまうことがないことを切に願う。

教育改革セミナー 高校はどう変わるか ~次期学習指導要領・高大接続改革から~

元堀川高校校長(現大谷大学教授)荒瀬先生の講演会に参加してきました。

新テスト関係の情報を期待して参加したのですが、その意味では情報量は少なかったです。

ただ、新指導要領の文言解釈ではなく、「新指導要領が実施されるこれからの教育現場はどうあるべきか?」について校長としての経験を交えた組織変革論として、大変興味深くあっという間の2時間でした。お人柄の良さ、人間的魅力、行動力を感じさせるカリスマ性、などとても見習えるものではないですが、よい刺激を頂きました。

Active LearningとはActive Learnerを育てることである。

用語が独り歩きし、「活動あって学びなし」のALが流行する中、知識・技能習得の重要性を強調される荒瀬先生の教育論は、僭越ながら私がこのブログでこれまで何度も強調してきたこととつながっているので大きな共感を覚えました。また、「ICT教育」 <「書く学習」というアメリカの研究結果もご紹介され、従来型の教育を壊してしまった後に失われてしまうものにも十分注意しなければならないと感じました。

他にも多くの知的なお話がありましたが、私が最も心に残ったのは荒瀬先生がキャリア教育について触れられた時にお話になった次のことでした。

キャリア教育では、生徒の自己肯定感を重視した教育が強調されている。これは、生徒を叱るな、褒めろといった単純なことではない。ブラックな環境に置かれている教員が(ブラック環境は現場に甘えた管理職の怠慢でけしからんし、改善すべき問題ではあるけれども)それでも重い体に鞭を打ってでも出勤する時に、自らを支えているもの、「自己有用感」である。

言葉がストン、と心に落ちてきたというか、沁みこんできた瞬間でした。

荒瀬先生の凄さはそういうことなんだ、ということも改めて気づかされました。

人は自分が必要とされていると感じなければ生きていけない。

こんな当たり前のことを、自分自身見失っていなかったか?

管理職の中にも、「お前の代わりなどいくらでもいる」といった人たちが珍しくない最近の日本ですが、「堀川の奇跡」でリーダーを担ったカリスマ校長の神髄はここにあるんだなぁ。

生徒に接する時、同僚に接する時、今までの私にそれがもっともっとあれば…。

人との繋がりを大切にして生きていかなければと強く感じさせられた1日でした。

荒瀬先生、ありがとうございました。

日本人はペシミズムが好き? Critical Thinkingについて考える

吉川 洋著 「人口と日本経済」(中公新書)を読んだ。

「人口減少 ⇒ 労働力人口減少   ⇒ 日本の将来は暗い」
「AI進化 ⇒ AIによる労働代替 ⇒ 労働者の仕事剥奪 ⇒ 路頭に迷う労働者」

こうした短絡的な Causes & Effects を実証的に検証し反論を加えていく本書
からは学ぶべきことが多かった。

著者の主張が正しいのかどうかは、まだまだ勉強不足の私には
判断が出来ないが、少なくとも著者の提示する反証の妥当性を
否定出来ない間は、大きな説得力をもった主張として私には
魅力的に写る。(もちろん現段階でも幾つか疑問点はありますが)

さて、著者の思考姿勢はまさにCritical Thinkingそのものである。

だから Critical Thinkingの能力が必要だ。

それは正しい。

しかし、「人口減=経済縮小」「AI進化=就職難」といった
枠組みを主張する人々が、Critical Thinkingの訓練を受けていない人々で
Critical Thinkingの能力を有していないから短絡的なのだ、と言えるだろうか?

そもそもどちらが正しいかまだまだ分からない。

CTスキルはあくまで道具である。

大切なのはマインド・ハートではないか?

自分が正しいと思っていても、集団に埋もれ集団の力学に支配され
その場の損得を考えてしか行動出来なければ、CTスキルなど
何の役にも立たない。

人口問題やAI問題を悲観的に捉える人々やそれを無条件に支持する人々が多いのは
何もCTスキルの不足だけが原因ではあるまい。(悲観論者が間違いということではありません。鵜呑みにして支持する、あるいは支配される人々が多いということ)

要は、その説を信じたいのだ。
私も含めて、「明るい未来を信じて生きる」方が
厳しくエネルギーが要ることなのだから。

特に日本人は悲観論が好きな気がする。

明るい未来を信じて、バカだと呼ばれることを恐れず
1日1日を大切に生きよう!

それがなければCTなど宝の持ち腐れになってしまう。

「機械が奪う職業」を考える

「AIや機械が仕事を奪う」という脅しにも似た話が
センセーショナルに語られる。

19世紀イギリスで起こったラッダイト運動などと比較し
未来不安に拍車をかけているようにも見える。

ちなみに将来機械が代替し人間の仕事がなくなる可能性が高いと
話題の職業は以下の通り。
機械が奪う職業ランキング(米国)の上位15位を抜粋。
1. 小売店販売員
2. 会計士
3. 一番事務員
4. セールスマン
5. 一般秘書
6. 飲食カウンター接客係
7. 商店レジ打ち係や切符販売員
8. 箱詰め積み降ろしなどの作業員
9. 帳簿係などの金融取引記録保全員
10. 大型トラック・ローリー車の運転手
11. コールセンター案内係
12. 乗用車・タクシー・バンの運転手
13. 中央官庁職員など上級公務員
14. 調理人(料理人の下で働く人)
15. ビル管理人

引用:ダイヤモンドオンライン http://diamond.jp/articles/-/76895?page=2

作業手順を簡単にデータ化、マニュアル化出来る仕事は
AIや機械に奪われていくという予測だろうか。

進路指導を行う教員としとも
考えざるを得ないテーマだ。

私はもっと劇的な変化の可能性を予感している。

それは、人間の将来の可能性をビッグデータから
予想可能と認識しAIが人材選抜を行う未来。

例えば、プロ野球のスカウトや企業の人事採用へのAIの進出だ。

下手をすると入試の世界にもAIが用いられる可能性すらある。

これは同僚との雑談の中で閃いた。
どういうデータに当てはまる人材が
組織の利益を最大化するのか、または、利益を最小化するのか?

入試の結果が良くても伸びない学生

採用面接をマニュアルで乗り切り
入社後生産力が低い社員

人材選抜のあらゆる場で
AIが使われるとしたら?

スカウトが不要になる。

人事課が不要になりコストカット出来る。

もちろんDNAデータの入手などは
人権問題になるので困難(不可能ではない)
だろうが、あらゆるデータを集め
組織に加入後、大きな生産力を発揮する可能性が
高い人材をAIが選抜する未来。

機械には創造的思考力など測れない!

その通りだろうが、
創造的思考でないものは
排除出来る可能性がある。

その方法は、Googleの画像検索など
既に実現している。
それならAIに出来そうだ。

私が恐ろしいと思うのは

人間の能力や可能性が数値化される
ことよりも、数値化不能な要素が
たとえ存在したとしても、排除・疎外される世界が出現することだ。

仮にAIに見抜けない才能や可能性があったとしても、
それを見過ごすマイナスよりも、
人間の判断ミスの方が不利益が大きいと世界が判断したら…。

その先には人間のあらゆる営みがデータに基づいた判断に還元され
AIに任されるような未来があるのかもしれない。

人間に必要なのは?

思考力ではなく、選び生きる意志と勇気

そこにしか、「人間」の創造する「世界」はない。

量子論の世界では、人間の意識が「世界」を変える。
AIには「世界」を変える「意識」は持てない。

そこにしか希望がないように思う。

AMERICAN HOT TOPICS 番組に出演してきました!

iTunesポッドキャスト総合1位獲得!
月間リスナー数20万人突破

初めての経験でドキドキしましたが、お相手のアサシン先生
のお蔭で、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

You TubeにUP されていますのでよろしければ
ご視聴下さい。

何歳になっても初めての経験は緊張しますが
何かにチャレンジ出来るうちは自分を変えることが出来るし
まだまだ生きていける気がしていいですね。

お相手頂いたアサシン先生、呼んで下さったコトバンクのKさんに心から感謝です!

 

「3の0乗は1」の話

ある生徒が、「3の0乗はなんで1なんだぁ」
と叫んでいた。

ふと、気になった。
私も訳が分からない。
なんで「3の0乗は1」なんだろう?

数学の先生に聞いてみた。

「何に3をかけたら3になりますか?」

1でしょ?

「だから3の0乗は1なんです」

訳分からない。

別の説明を受けた。

「3の1乗は3、2乗は9、3乗は27。
3乗⇒2乗⇒1乗での変化に対応して
それぞれ1/3になっている。だから、3の0乗は1」

なるほど!!すごい!分かった!!

ん?待てよ。ところで3の0乗って何しているの?

3を2回掛けるのが3の2乗。

3を0回掛けるってどういうこと?

すると、その数学の先生がボソリと一言。

「細胞分裂ですかねぇ・・・」

しばらく考えた。

● ⇒ ●●● ⇒ ●●● ●●● ●●●

なるほど!!!!今度こそ分かった。

1回分裂すれば=1乗 3、2回分裂すれば=2乗 9。

0回分裂すれば=1だぁ!!!!

だから、4個に分裂しようが、5個に分裂しようが
分裂回数0を意味する0乗は全て1になるのか!

ここで、恐ろしいことに気づいてしまった。

あれ?数学のこんな基本的な計算と細胞分裂の発見って
どちらが先だ???

数学・・・かな?

だとしたら、数字が作り上げる高度なゲーム的な世界が
表現するものが、自然界に既に存在しているということ!?

数学の学び方を間違えていたことに50歳近くになって
ようやく気づいた。

数学は現実世界の現象を説明するものではなく、
現実世界の現象に先行するもの?

数学世界が表現することが一体何を意味するのかなんて
数学が表現した時点では分かっていないことが多いのか?

数学を学んでこなかったことを後悔した。

「意味」が先にあって「動機」ではない。
「実践」が「動機」を生み、「意味」に繋がることもある。

数学を真剣に学んでいれば、「世界」に大きな「意味」を
見出せたことも別の角度からあったのかもしれない。

いつも生徒に言ってきたことだが、自分ができていない。
今からでも勉強しよう。「世界」に出会うために。

逆に怖い話。

経済の世界などで数学が高度に応用されていると聞く。

ならば、数学により構築される「経済学・理論」の世界は
まだ「現実」を表象できないレベルにあるはず。

ある数式や数学的表現によって表される世界に土台を置いた
経済学や経済理論というものが、「現実世界」に何を
もたらすのか分からないのだ。

もしかしたら、「破滅」を表現しているものなのかもしれない。

そう考えるとぞっとする。

答は出ない。

円周率は無限と思われる暗闇へと続いている。

「解なき時代」の教育?

最近よく耳にするのが
「解なき時代の教育」

従来型の教育では
「解なき時代」には対応出来ない。

本当にそうなのか?

そもそも、これまでの時代は「解がある時代」
だったのか?

人類は常に「解なき時代」を生き
「解」を創造し続けてきたのではないか?

「解」が明確であったのは
産業界に必要な人材像とか
国益に繋がる人材像とか
そういうものなのではなかったか?

経済界で有益な人材とは?が「問い」で
「前例踏襲をしっかり行える」が「解」であるような
そんな単純な世界の話ではないか?

たかが、と言えば傲慢であるが
そんな程度の変化を根拠に
教育の変革を訴える声には
どうしても懐疑的にならざるを得ない。

さて、「解なき問い」に対応する時に
必要なことは何か?

これまでも、同じだったのではないか?

つまり、先人達の問題意識や知識を十分に踏まえて
自分の「解」を創り出すこと。

「いま世界の哲学者が考えていること」(岡本 裕一朗 氏)

この本を読むと、世界の偉人たちが
「解のない」様々な分野で
必死に悪戦苦闘してきたこと、悪戦苦闘していることが伺える。

文理を問わず、洋の東西を問わず、人間とはそうやって
生きてきたのではないか?

突然「解なき世界」になり、
これまでとは違う教育や学びが必要だと言う時
「これまでの人類は解のある世界で生きてきた」
と考えるのなら、それは現代人の大きな傲慢であると
感じるのだが。

今を生きるということ

人生がつまらないと感じていた時期があった

昨日と同じ今日
今日と変わらないであろう明日

こんな日常が延々と続いて行く

うんざりだ。。。
そんな思いに支配されかかっていたある日

当時、非常勤で勤務されていた先生から1枚の写メが届いた

私が当時住んでいた近所の庭園の紅葉の写真

すぐに起きて、庭園に向かった

こんな近くに美しい景色はある
いつでも行けると思っていた

昨日と同じ今日があるのではない
今日と同じ明日が続くのではない

いつでも行ける
そう思う心が世界をそう見せているだけ

死を覚悟して生きよ
ハイデガーら実存主義者の言葉

激しく消耗する生ばかり定期的に繰り返してきた

そんな疲れた自分を救ってくれたのは1枚の写真

そして、何でもないところに答えはある

いつでも出来る
そう思っていることを大切に

いつでも出来る
そう思っていることを今やろう