共通テスト Fact Opinion 識別問題の大きな問題点

以前のブログでも試行問題段階で取り上げましたが、この問題コンセプトそのものにかなり問題があると思います。試験の設計としても、今回の共通テスト第一日程、第二日程では大きな課題が見られました。以下、順を追って説明したいと思います。
【問題点①】 共通テストの問題には fact / opinion の定義すらない。
そもそもFact / Opinion とは何なのでしょうか?https://www.bbc.co.uk/bitesize/topics/zs44jxs/articles/z3wgqhv
BBCの上記のサイトにはfact, opinion の定義が以下のように掲載されています。

Facts:

  • Facts are definitely true.
  • They can be backed up with evidence.
  • For example, ‘the Prime Minister is giving a speech.’

Opinions:

  • Your opinion is how you feel.
  • Other people might think differently, they have a different opinion.
  • For example, ‘having a teenager as Prime Minister is a terrible idea.’

実は後述しますが、BBCのサイトもこれらの定義については恐らく最近Updateを掛けていますが、PISAのテストにせよ、共通テストにせよ、上記レベルの定義の2分法を前提にしていると思われます。このこと自体が問題としての大きな課題であることは言うまでもありません。なぜなら、解答者は定義が明確でないものでの2分法を迫られることになるからです。


【問題点②】 共通テストの問題には本文を見る必要がない選択肢が多くなる。
何をもってfact, 何をもってopinionと識別するかが分からない状態で、受験生は、fact=事実(客観) opinion=意見(主観)というレベルの意識で解くでしょう。そして、これは出題者側の意識レベルも同じだということが問題から分かります。以下、第一日程、第二日程で出された計8題のfact, opinion の二分法の問題の選択肢を全て見ていきましょう。
選択肢だけを見た場合の解法はシンプルです。
① 感情の助動詞(should/need/must/ have to)などを含む選択肢はopinion

② 判断を含む形容詞(many / few / little / much など)や副詞( well / fortunately)などはopinion

第一日程
第2問A 問3・問4

【解答】 問3=1 問4=3

【解法】 

問3 ②はneed to で、③はvery wellで、④はpromising でopinion確定。よって読まなくても解答は①

問4 ①はスコア=数値。本文とあってれば問題なくfact。合ってなければfalse。 ②も本文・資料から判断 ④も本文・資料から判断。   ③はreally connected with が主観的表現。そもそも①~③は事実確認出来るので③しか残らない。

第2問B 問2・問4

【解答】 問2=4 問4=2

【解法】

問2 ①はis needed より、②はimproveしたかかどうかは何をevidenceにしてるか不明なことより、③はshouldより opinion確定。よって資料から念のため確認し正解は④。

問4 ①はimportant / earlyより ③はhas to より ④はneed より全てopinion。よって読まなくても②しかない。

第二日程第2問A 問3・問4

【解答】 問3=3 問4=1

【解法】

問3 ③のa lot of より、④のa long time より opinionの可能性があるのは2つ。あとは本文確認。

問4 ②はconveninentより、③lightより(carry aroundの意味上の主語があれば別ですが)、④not too expensive より(これもbuyの意味上の主語次第では別ですが)   opinion確定。よって解答は①しかない。

第2問B 問3・問4

【解答】 問3=3 問4=1

【解法】

問3 ①はgoodより、②はniceより、④はchallengingよりopinion。よって③しかない。

問4 ①はdifficultより、②はmostより opinionの可能性があり、③④は主観がないのでopinionにならない。よって①か②かを本文で確認。
解法により選択肢のみの確認で正解が確定する問題が6/8でしたね。


【問題点③】 共通テストで出題すべきかどうか、の前にこの2分法そのものに何の意味があるのか?
私の授業では、fact / opinionの二分法そのものが抱える問題点を以下のようにまず生徒に説明しています。


A)ディズニーランドの昨日の入場者数は多かった。

B)ディズニーランドの昨日の入場者数は3名だった。


生徒にfact or opinionを質問すると、A)=opinion B)= fact という回答がすぐに帰ってきます。「正解」と言った後、「でもさ、ディズニーランドに昨日3名しかいかなったって本当?」と聞くと、「あ!?」という顔をします。
definitely true かどうかは、分からない訳ですから、factとすることへの違和感と、fact=truthとは限らないという気づきが生まれます。


factかopinionかということを考えさせることに意味があるとしたら、それはCritical Thinking、つまり、書かれていることが正しいのかどうかを自分の頭で考えて、様々な資料を確認して真偽を見極める能力を養うこと、それしかありません。しかし、fact / opinionの2分法は、単なる情報の選別にしかなりません。先の学びが生まれない。


私の授業では、Auburn Universityの研究者の提唱する4分法を使っています。
fact = sourceがハッキリしているもの

false claim = 明らかな間違い

untested claim = sourceが明確でなく確認が必要なもの

opinion =sourceが不明確で、かつ話者・書き手の主観


4分法を使えば、A)=opinion B)= untested claim となります。B)は主催者発表なのか、それとも入場者が見渡した結果の言葉なのか、sourceが明らかではなく真偽が判断出来ません。よって、oipinionともfactともfalse claimとも判別が付かないことになり、untested claimとなります。
untested claimは特に報道では出来るだけ避けるべき、という前提が海外の先進国のメディアでは常識ですが、日本ではopinionの垂れ流しや「関係者筋によると」といった曖昧な表現が本当に目立ちますよね。Critical Thinking Skillをつけたいのなら、まずは大人から、です。


蛇足ですが、実は、 There were many people in Tokyo Disneyland. がopinion という判断も実は正しいとは言い切れません。なぜなら、sourceが提示されていれば、基本的にはfact になるからです。
これを言えば元も子もないですが、共通テストで出してはいけないと言う理由お分かりになりますよね?本文というsourceがある以上、opinionとは言い切れません。こうなると【解法】云々ではなく、選択肢は2分法で言えば、全てfactになりますし、fact=truthとは限らない訳ですからfact=falseでも構わないということになりますので、本文に記述があれば全てfactとなります。
だから、やめるべきだと試行問題の段階から発信したのですけど・・・。私の言うことなど、世の中を変える力はありませんね(笑)。

2021 共通テスト 文系科目単なる感想

Facebookで1科目ずつコメントしていったのですが、文系科目は全て解いてみたので、感想をここで投稿をまとめてみます。英語については後日詳しくコメントするかもしれませんが、とりあえずの投稿です。

【英語Reading】

共通テストのfact, opinion 問題。本文読まないで解けてしまうやん😅
コンセプト自体がアカンと言うてきたのに…。詳しくはまたブログで書きますが(というか以前試行問題の時に課題として発信したのですが)。難化と言うてる予備校の判断も表面的な予感が😅。

分量の多さに惑わされなければ、センターよりむしろ満点取りやすいというのが私の感想です。
Fact,Opinion の問題はコンセプトに難ありは既に投稿した通り。
さて、ただ一問。
うちの生徒のマインドから心配な問題が一つ。
17:00にお土産屋に到着。約1時間の購入時間と指示される。ホテルの食事は18:30スタート。お土産屋の最寄りの駅から乗るべき電車はどっち?
17:40発18:02着の電車で徒歩数分でホテル 
か 
18:00発で18:22着の電車で徒歩数分のホテル
真面目なうちの生徒なら、お土産屋購入時間切り上げ、電車が遅れる可能性も考えて、5分前集合を考えて、部屋でお土産置いて戻る時間も考えてしまいかねない😅
嫌な予感するなぁ😰
だから私はギリギリまで見学も遊びもやって来いと言ってきたんだけど…。
いや、『だから』は違うけど😅

【英語Listening】

うちの学校はZ会のリスニング問題集を使用してますがほぼ難易度的にも同じであっただけでなく出題ミスとしか思えない聞かなくても解けるグラフ問題までまさか本番で出るとは!?ビックリ😳
デンマークの幸福度の問題は最近話してた雑談的な話とリンクしてたけど、まぁそういうことはよくあること。
今年の生徒は一回読みだけでなく、配点が大きい設問があることに苦しむかな。
これは例年の国語と同じで上位層で差を生みやすい。もちろん、どこまでを上位層とするのか?にもよるけど。
ところで、せっかくデンマークの幸福度の問題出すなら、このコロナ禍で入試だけはどうしても、というシステム変えればいいのに…。

【現代文】

英語と違って漢字の知識を問う問題、これ本文ほぼ読まなくても出来るレベルで従来とあまり変わらない。
評論の問題の選択肢の長さもセンター試験から変わらず。
解答では確実に間違いを含む記述さえ弾ければ正解に辿り着くのは難しくない。小林秀雄ショックの年も基本的に問題自体は難しくない。生徒目線で見れば、本文の言ってることがサッパリ理解できないレベルなのか、なんとなくでも自分の中で引っ掛かるものがあるのか次第で解きやすさは変わるでしょうね。今回はそれほど厳しいテーマではないかな。妖怪ではなく鬼がテーマだったら更に解きやすかったかもだけど。
小説も本文、批評①、①への反論と、小説のようなタイプの文章の読み方や解釈の多様性というコンセプト以外は、従来型とあまり変わらないし、解き方も実は評論と同じ。根拠は本文にしかない。本文に書かれてない余計な情報を含む選択肢を除外できれば、正解へのアクセスは可能。選んだ選択肢の妥当性にこだわりすぎると迷うでしょうけどね。
で、新傾向、どこ行った?😅
試行問題と題材が違いすぎでは?というか、止めるなら今後も止めれば?受験生への配慮なのか、今後もなのか、
これでまた来年も受験だけにフォーカスする人達は疑心暗鬼になりそう…。

【世界史B】

もう知識はほとんど脳から消えてる自分がどう感じたのか、レベルの発信です。昔読んだ漫画のストーリーすら記憶から飛ぶ今日この頃ですから、コメントはそういう奴のレベルの発信だとお読みください(笑)。
まず、資料の改竄や言論弾圧を所々でテーマにしてる🤣
歴史に学べというメッセージとして受け取りました😅
次にセンター試験の世界史ほどひどい試験はない、とずっと言ってきましたが、今回改善されてると感じました。
少なくとも様々な出来事、背景などの因果関係として歴史を考えさせるスタンスは感じました。
ただ、これ、グラフ何の意味あるの?という使い方は今後改善して欲しいです。
形式だけ繕っても意味はないから。
用語集ボロボロにしてきた受験生には食い足りなさやかなりの浅さを感じたかもしれませんが意味も分からず、受験終われば忘れるような知識問題よりはずっとコンセプトはいいと思いました。

【日本史B】

受験科目としては使わなかったので高校1年生の時に履修しただけです。素敵なお爺ちゃん先生の授業、眠くなることも多かったけど、戦時中の体験談など今でも覚えてるなぁ・・・。
世界史に比べると昔から歴史を学ぶ面白さなどを意識した問題はあったように思いますが、後半の問題は私でもあまり間違えなかったです。つまり、出されている資料や統計をよく見たり、背景を考えたりすれば史実についての細かい知識がなくても解答が出来る。
センター試験時代の地理Bなんかがそういう特徴ありました。原油を飛行機で運ばないよなぁとかそういうことを考えられれば知識がなくても解ける問題があってそれだけで6割取れてしまったり・・・。ただ、地理Bもそうだけど、年度による難易度差が大きく、むしろ求められる知識レベルが上がると平均が下がっていたことを考えると、今後は後半のコンセプトの問題が増えれば、丸暗記よりは、「なんで当時の人はこんなことをしたんだろう?」といったことを考える科目や授業になりそう。
試験から授業を変える発想は好きではないし、もう何度も言ってきてますが、「試験の精度や質の向上」では社会は良くならない。けど、こういう問題になることには私はいいなぁと個人的には思います。
で、何より嬉しかったのは、一遍上人また登場😊踊り念仏、好きなんですよね~。
佐久市のお寺にも2度ほどお邪魔して、祭りのために団子作ったり。40歳超えてたけど、「学生さん?」とか聞かれた。元気な80代や90代から見えれば私なんかただの小僧なんだなぁとくすぐったい気持ちになりました(笑)。

【地理B】

資料の読み取りや背景の考察でかなり取れると感じたのですが、案外平均点は伸び悩むのかな?意外です。
高校時代履修すらしなかった科目ですが田舎の地元公立中学入学当時は最も好きな科目でした。当時の地理の先生が、山登りが好きな先生で、授業中に見せてくれる写真が大好きだったことや、親戚が車でいろんなところに連れて行ってくれることが何よりの楽しみだったことから、中学時代までの自分がどれだけ恵まれた環境だったのか、改めて感じます。
天橋立は大好きな場所の一つで、高校時代の友人とも、家族とも、その他色々な人達とも何度か行ってます。ちなみに現高校3年生が本校に入学してきた年の中学入試の問題とほぼ同じという偶然。6年前の入試のことを生徒が覚えてたかは・・・。うん、きっと覚えてたと信じましょう(笑)。
地理って地名覚えるだけの科目ではなく、産業や歴史とも関連するし、地学とも当然リンクするし、何より行ってみたいというワクワク感も生みやすいし、学んでいて本当に楽しい科目だと思います。センター試験時代から実は解いていて一番楽しいのは地理だったりしますね。もちろん、知識を聞かれると知らなければどうにもならない訳ですが・・・。
地政学といった学問も注目されるようになってかなりたつけど、文系理系問わずに勉強しておいて損はない科目だと思います。もちろん、テストに向けて、ではなくて、体系的に学ばなくても、特定の地域を歴史、産業、人口動態などのデータ、地形、地政学など様々な観点から考えて学ぶだけでも、無茶苦茶勉強楽しくなる気がします。

【倫理】

今回平均点高そうですね。
もともと資料読解力や文章読解力があれば、知識がほとんど必要ない問題が最も多い科目だったと思いますが、今回は特にそのタイプの問題が多いことが平均点の高さに繋がるのではないかと思います。
2016年の倫理・政経の倫理分野の問題では、ハイデガーの思想についてかなり突っ込んだ「知識」が問われるような問題もあり、単純な人物ー書物名ーエッセンスといった勉強では対応が難しかった記憶があります。
学ぶ生徒目線が工夫されている点は新しいコンセプトを感じさせる問題ですが、うーーん。
テストとしての工夫という文脈の中でこうした努力は悪くはないと思うのですが、やはりテストはテストでしかないとも同時に感じます。
あ、と思ったことがあり、ちょっと追加。
ハイデッガーにしても、フッサールにしても、リオタールにせよ、分かりもしないものと必死で格闘した昔を思い出しながら解いていたのに、軽く友人同士の会話や先生との対話で日常に落とし込まれてることが私には気に入らなかったのかも😅
親しい友人や敬愛するアーチストを、かるーくパターンにはめ込んで理解した風なやり取りに、お前等に何が分かるんだあ~!と怒鳴りたくなる気持ちかぁ。なるほどね😅。
思春期に必死に格闘したことは、今の自分にどう役立ってるとか、そういうことでなく、混沌に向き合う経験そのものを若い子たちの日常にゆとりとして与えられる世の中になって欲しいと思います。

【政経】

これは大人の方が取り組みやすいですね。社会人としての経験値があれば、何も勉強しなくてもほぼ満点取れてしまう人も多いと思います。私は満点ではなかったですけど😅。
この科目、以前より明らかに「知識」確認タイプから、読解力や資料読み取り能力に変化していますね。「これしかないやろ」と全ての選択肢を確認しなくても正解に飛びつける問題が最も多かったです。
地理B、倫理、政経、日本史B,世界史Bを解いて思ったのですが、
「国語」という科目のコンセプトより、文系・理系を問わずこれらの科目の問題の中で、「知識」がほぼ不要の問題で総合的な科目を設置するくらいで十分に大学入学後の基礎学力としての読解力や資料読み取り能力は測定出来るのではないか?と感じたことです。
上記科目の横断科目を、「読解」とし、「現代文」「古典」「それぞれの地歴公民」「数学」「英語」「理科」は、志望する大学が個別で出題するなり、民間試験使うなりすれば十分では?
国文科志望の受験生も医学部志望の受験生も、同じ「現代文・評論&小説」を解いていること自体が本来は異常なのかなと思います。
幅広く中高生に学ぶことを求めたいなら、そっちの方がよいと思いますが、いかがでしょうか?
もちろん、反対意見も出るでしょうね。
ただ、大学入学適性試験程度のものとして、こういう変え方もありだと思います。どんなに丸暗記の知識を持っていても、グラフや資料や論理の基礎読解に難があるのなら、それは克服すべきものとして学べるようにすればよいと思いますし、そうなれば中高もリカレントの場として幅広い層を受け入れる場に変われるかも知れない。
駄目ですかね?
あと、『国語』という呼び方。もういい加減止めるべきかと。

【現代社会】

倫政は倫理と政経からの抜粋なので、現代社会を解き終わり文系科目は全て終了。
予想平均点が低い理由が分からない位、知識はほぼ不要の問題で、適当にしか課題文読まなくてもすぐに解答出来る問題が多い。けど、これも政経と同様に大人の経験があれば、なのかな?
そもそも私は中高一貫校に高校から入学、しかも10名しかいない高校入学組の1人なので、数学I、現代社会、理科Iという科目は教科書渡され、「勝手にやっといて」と言われた人間なので、この科目は習ってもいない。35年前でも中高一貫校ではそういう科目は中学3年生時に履修しているのが普通だったんですよね。高校の最初の数学の授業で春休み因数分解予習してた私が、「タンジェント・コサイン・サインの一部だけ残ってるから、さっとやってしまうぞ~」と言われた時に、「あれ?数学の先生じゃないの?」と疑問に感じたのは、実話です😅
今回の共通テスト・現代社会でもPBLが強く意識された問題設計になっていますね。ただ、結局、それもテストですから、資料と主張がロジカルに繋がっているか?といったことを読み取らせるだけの問題で、地頭がそれなりにある生徒なら勉強もPBLの経験もなくても軽く解くでしょう。昔の私も共通一次の現代社会、ノー勉で満点近く取れた記憶がある。これ、別に自慢ではなく、そういう試験だということだと思います。
今回の問題では、コンドルセのパラドックスが話題になってたけど、そういう知識を聞くのではなく、パラドクスの内容そのものを政治における意志決定という具体的な場面で考えさせる狙いがあって、試験問題というより、中高生には是非知っておいて欲しいなぁと感じました。

【今後の展望】
ここ数年サボってましたが、今回は色々理由があって、久々にやってみましたが、恐らく今後は以下のような展開になるのではないでしょうか?


① 試験の中身ではなく、スクリーニング機能が重視される。
② 来年度は共通テストコンセプトを更に重視する形式に。
③ 今年の平均点で難易度は隔年減少で調整される。


入試改革で教育が変わる、とは私には思えません。
教育変えるなら、社会が先か、少なくとも同時。
テストで授業を変える、という考えにはやはり同意出来ません。
数学・理科は眺めるだけしか出来ませんが、少しずつ・・・。
ただ本校の頼りになる仲間達の意見だと


① 化学は基礎を含め、理不尽に難しくセンスや「お釣りがある学力」がないと解けない。
② 生物は知識不要の問題が多すぎて、来年の反動が怖い。
③ 数学は上位はかなり苦労する。平均点が高くても上位層で差がつくかも。ただし、このテストで出来ること=数学が出来るとは思えない。


らしいです。


高校時代の同級生。ワンゲル部でしたが、「地学は趣味」と言ってました。そういう学びが出来る人は、こんな試験に右往左往しなくて済むということに尽きると思います。
見習わないと、と思いながらもなかなか出来なくて、楽しいところだけつまみ食い、を散々やってきたんですけど😅

まさかのドキドキ体験

昨日は日仏会館・フランス国立日本研究所(UMIFRE19 フランス外務省・国立科学研究センター)主催の日仏シンポジウム
『21世紀の働き方 日本とフランスの比較』に参加しました。
https://www.mfj.gr.jp/agenda/2020/11/28/colloque_travail/index_ja.php

14 : 00 – 16 : 00 パネルディスカッション3 性別職務分離の変容―日本的雇用システムの転換―司会:金井郁「ILOのジェンダー平等への取組み」 田口晶子(前ILO駐日代表)「コロナ危機と女性労働者」 大沢真知子(日本女子大学)「二つの国民:日本の二重構造と労働市場」 小熊英二「職場の男女不平等を削減する : ワークライフバ ラ ンス政策の役割」
エレーヌ・ペリヴィエ(パリ政治学院)

ジェンダー問題と労働市場問題の両方勉強出来る貴重な機会だったので。
Zoomウエビナーで参加したんですよ。実を言うと最近買ったiPadでベッドで横になって…。


そしたら…ウエビナーなのにですよ?
Q&Aに書き込んだ内容を見た司会者からまさかの指名😲!?それ、有り????
いきなりミュート解除され、『鮫島さん、どうぞ』って😅。心臓止まるかと思いました。小熊さんにはライブハウスでお会いしてご挨拶してますが、他の方々は面識ないし、そもそも、わい、パン一でした、実は😅

飛び起きて…
エレーヌ・ペリヴィエさんと小熊さんに質問をしました。

以下、私の質問。
フレキシキュリティについて興味を強く持っています。
フランスでは学歴による社会の硬直化が課題になっているという発表がありましたが、高流動高保障社会への転換は議論されてないのでしょうか?

エレーヌ先生の回答(講演内容含む)フランスは小さな政府を目指したセキュリティー不在の高流動が起こってる。ジェンダー問題解決の為に様々な政策が取られているが、そもそも財政緊縮の文脈で行われているため、育休期間の保障も最低賃金の半分から三分の一へと減らされ、期間も三年から二年として、女性の職場復帰を促す為に残り一年は男性が取るようにとしているが、特に女性の復帰の場合に元のキャリアが保証されない問題が起こっている。

小熊先生の回答
経営者、労働者ともに既得権の縮小をどこまで自浄作用として承認出来るかに掛かってると。ジェンダーギャップ解消とクラスギャップ解消の課題解決は必ずしも両立しえない場合もある。


私としては、小熊さんにはフランスの現状も踏まえて今後の日本の見通しを聞きたかったけどそこまでやり取りの時間はありませんでした。
ふぅ~。とりあえず画面まで解除されてパンイチで登場しなくてよかった~😱😱😱😱

新入社員に求められるのは「主体性」?

https://www.recruit-ms.co.jp/issue/column/0000000824/

経団連はじめ企業の発信を読むと、「主体性」を「求める資質」の上位に挙げる企業は多い。

でも、「主体性」を備えた人材をどう活かしているのか、という発信をする企業はほとんど見かけません。企業内のハイパフォーマーや役職者の美化されたサクセスストーリーの中で語られるものが、その企業の文化だとも思えないですし。「即戦力」=「OJTが限界」ということでもあるはずですが、現在企業が抱える人材のリカレントなどにどう取り組むのか?という発信もほとんど見ない。

要は「これからの未来に向けて企業も不安だし、育てる余裕もないから即戦力くれくれ」としているようにしか見えない。主体性の欠片も感じない。

もちろん、大学のみならず、小中高も「社会に貢献すべき組織」だと思うので、社会人として立派な人材を育てる義務があると思います。また、「公金」を、公立はもちろん、私立だって一部とは言え使っている限り、社会的存在意義について市民社会からの信頼が土台になければならない。その意味で、まだまだ自分を含めて、そのメタ認知や努力が不足しているとも思います。

しかし、経団連や同友会の提言を見ると、「社会に必要な人材」とやらが、特定企業の「即戦力」に見合う人材養成に矮小化されているように見えます。資本Orientedで、社会・国民Orientedではない。そしてその結果、「消費者」が育たず自分で自分の首を絞めているようにも感じます。

資本に隷属する人材育成ではなく、社会貢献する資本と人材育成へ

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65696690Q0A031C2DTB000/?fbclid=IwAR1TZCs4VY-S8xjcXg3RBdniqP9G5xGqyjjzWQJp1GekobSRNfiOGxFq-tg

再エネルギー大手に資金が集まる世界的な流れ。

逆に日本は電力10社の時価総額、デンマークの風力大手に及ばず・・・。

OJTが限界の日本企業では即戦力が必要!だからその育成という役割を教育は果たせ!

そういう文脈で教育改革も語られてしまったからこそ、上手くいかなかったのでは?

まず、大人が社会貢献を。自分を含めて変わらなければならないのは大人の方だと強く思います。

Audrey Tangさんから学ぶ

「私は、プログラミング教育よりも「素養」(教養)を涵養するような教育を重視すべきだと考えています。台湾ではこれまで「競争力」を重視するかのような教育が行われてきましたが、現在では「素養」を重視するように教育方針が変わりました。自発的で、ともに助け合い、共通の利益を求めるという3つの要素を重視する教育への転換です。日本の教育政策の方向性は正しいと思いますが、台湾ほどのエネルギーは発していないかもしれません。」(以上、引用)

私が先日のイベント(イノベーション・ガーデン)で質問した内容についての答がまさにこれでした。

「どう勝つか?」

財界主導の教育改革も、海外への活路も、私にはそれしか見えていないように思えます。もちろん、今の教育も、もう随分と賞味期限切れの「科挙一発選抜と正規勝ち組維持路線」を継続している。

「クビに出来ない社員などもう雇えない。だから派遣」とかいう新自由主義的なインフルエンサーがいますが、それには反対しても現行の教育も科挙も保守して守ろうとするのでは、何も変わらないどころか、結局弱者への犠牲、搾取を止められないでしょう。

そんな社会構造から抜け出す流れが、コロナ禍をキッカケに、台湾での教育でもさらに見られるようになったと彼女は語ってくれました。

彼女にはとてもとても追いつけないけど、自分が見てる方向のはるか先に彼女がいる。

非正規搾取と正規既得権の終焉?キャリア教育はどこへ向かうべきか?

望む、望まない、に関わらず当然の変化になるでしょう。小熊英二さんの指摘を借りれば、今までよくもたせてきた、と言えるのかも知れない。その時、それぞれの個人間での既得権争いになれば結果として資本が太るだけになる。狭い組織内で我が身可愛さに流れされれば、芥川龍之介の蜘蛛の糸の世界になる…。こういう組織もドンドン腐るんだろうなぁ。分配側に回って偉そうな顔してるだけの無能。でも、いつまで無事でいられるのかな…。

もちろん、太るどころか、支える体力のない企業は潰れ失業率が上がれば社会全体が壊れる。というか、壊れているものを差別的搾取構造で必死に支えてきただけなのかも知れない。そもそも、心的安心安全がごく一部にしか保証されない新自由主義的な社会では、生産性も向上が見込めない。だからこそ#フレキシキュリティ しかないのかな。

怖い記事ですが、全体最適化から個別最適化を考えてコンセンサス構築が必要な時代になったのだと思います。

さて、こうした時代に、『勝ち方』『ライフハック』などのキャリア教育にはドンドン意味がなくなるように思います。アイデンティティをしっかりと考えさせると従来の進路指導は当然継続するとして、環境の変化にどれだけ自分を合わせていけるのか、といったマインドや経験値を身につけて貰うことを具体的にやっていかなければならないと思っています。

いや、その前に、大人が学び変化する、それを子ども達に感じて貰えなければ話が始まらないこともあるでしょうし、そもそも教員ももう「一段高いところからしか安心して発信出来ない」といったスタンスを止めるべき時期、いやとっくにそれが必要なんだと思うのですけど、自分も含めてまだまだ実践できていないなぁと思う今日この頃です。

人間に近いアンドロイドを追究すれば、人間理解が進む!?

https://forbesjapan.com/articles/detail/23573?fbclid=IwAR0dHenkqLQ3TcW4Cnn-znf6u06HlGbWB6Y9vOolYYZsEmCv3fOi0Jgw-BU

あるイベントで、大阪大学石黒先生を知ってしまったことで最近、アンドロイドと人間というテーマで考えることが多くなりました。こうやって新しいことを知って考えたり学んだりすることが楽しいうちは、生きているのかな?と思うことにしています(笑)。

上記のリンクの記事も面白い。

先日の宗教家との対話でも話題になってました。テクノロジーの進化が人間観をドンドン変えていくというお話。

ただ、一つだけ疑問が生まれた。石黒先生のおっしゃることへの疑問ではなく私の中でふと生まれた疑問。

私達の『経験(生きていることそのもの)』『記憶』『データ・記録』は果たして同一のものなのか?写真や映像を見て、それを経験と同一視する人はいないと思います。『経験』とは決して定着出来ないもの。そして全体として部分に還元出来ないもの。

昔好きだった福永武彦の『草の花』の中にもあったように記憶してますが、定着不可能なものを必死で定着させようとする人の心の哀しさ。しかし、記録媒体の多くが進化していけば、更に純度の高い『データ・記録』は可能になるでしょう。それらは、『記憶』と、もしかしたら区別が出来ないものにまで高まるのかも知れません。いや、間違いなく「記録」の方が「記憶」を質で凌駕するでしょうね。

そうした『データ』を内在化したアンドロイドが誕生した時、果たしてそのアンドロイドとオリジナルは同一のものと言えるのかどうか?自己中心性(自分の内部から生きていること)の問題もそうですが、私の中では考え始めると眠れなくなる疑問が一つ増えました。しかし、石黒先生って面白い方だなぁと思います。

人間が生きていくうちに「記憶」の方はドンドン消えていったりします。少なくとも走馬灯を見るまでは日常の生活で見えるところからは消えているのかな?

その忘却が生物に必要ということから考えると、『経験(生きていることそのもの』は『記憶』『記録』の軸に向かう物ではないものなのかも知れませんね。

VRの可能性についてふと思う。

VRの可能性についてふと思う。
VRの可能性としては、現実ではなくとも目の前の映像や身体感覚をリアルなものとしていかに感じられるか、が追求されているように思います。これは教育の分野でも今後ますます活用が広がって行くでしょう。行くのにコストが掛かってきた留学もバーチャルな留学になれば、低コストでより多くの人の学びの幅が広がるし、バーチャレンジな宇宙旅行、バーチャルな事故の瞬間など人が本来なら体験不可能な領域や二度は体験出来ないものも体験出来る様になるかも知れない。
ただ、ふと思ったことがあります。いつものように単なる思いつきですが。
自己中心性=自分の内側からこの人生を生きているという事実
ピアジェの発達段階の話ではなく人間という存在の本質的限界
これもしかして、VRで超えられる?
思考の部分、観念の部分では無理でも、感覚の転送や、自分を他者の視点からリアルに認知出来るとしたら。
他者を痛めつける自分に痛めつけられる被差別者の体験も人の痛みが分からない人間に体験させることが出来る…。そんなことでこの世の中から差別や戦争がなくならないのかも知れないけど、ふとそんなことを考えてしまいました。

中教審答申(2014年12月22日)と2020年7月14日経団連「Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言」についての 勉強会

昨日は最近の教育改革について、2000年あたりからの経団連・経済同友会などの提言、中教審答申などの勉強会に参加しました。少人数の非公式の勉強会なのですが、個人的には非常に勉強になりました。その中で平成26年(2014年)の中教審答申と経団連の最近の発信が話題になったので備忘録としてまとめてみます。

① 2014年12月22日 中教審答申

新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(答申)

この資料、改めて読み直してみると、「教育改革についての方向性」について個人的には賛同出来る部分が非常に多かったことに驚きました。

(4)高大接続改革を推進するに当たって留意すべき点
「高大接続」とは、高校生の全てを大学教育に接続するということではない。(中略)高大接続を議論する際には、高等学校卒業生の多様な進路を踏まえ、国家及び社会の責任ある形成者として、自立して生きる力を高等学校教育において確実に育むという視点が重要である。
あわせて、高等学校卒業後、生徒がどのような進路を選択するにせよ、経済的な理由
のみによりそれが左右されることのないような配慮も必要である。

⇒ ここでは、高大接続改革の本質が、高校教育から大学教育への準備に限定されるものではなく、高等学校の教育そのものがまず独立したものとして、社会に出て行く子ども達の成長のためのものであることが述べられている。授業だけでなく学校生活そのものが自己目的的なものではなく、様々な活動を通して生徒が成長出来る機会・環境を高校が準備するものであるべき、という公教育の意義がきちんと発信されている。だからこそ、答申は次のように続く。

また、「高大接続」の改革は、「大学入試」のみの改革ではない。その目標は、「大学入
試」の改革を一部に含むものではあるが、高等学校教育と大学教育において、十分な知
識・技能、十分な思考力・判断力・表現力、及び主体性を持って多様な人々と協働する
力の育成を最大限に行う場と方法の実現をもたらすことにある。

⇒ しかし、実際の高大接続は「民間英語試験導入」「センター試験から共通テスト」「共通テストにおける記述式導入」「1点刻みではない入試」といった方向に進んだように見える。なぜ、この教育改革がそこにフォーカスされてしまったのか?それは「現在の教育の実態」を踏まえた具体的改善策の不在が大きいのではないかと考える。

つまり、「どこの大学に入学出来る学力をつけたか?」という入試学力という観点から現場の学校教員も保護者も学校の価値を評価する流れが大勢であることを前提に、それをどう変えるのか?についての具体的な方策についての発信がない。そもそも、スクリーニング機能としての入試とその先の社会という路線、資本を含む大人の在り方や社会との関わりについても論じられることがない。「高い進学実績・英語教育・グローバル教育・ICT」といったものが教育市場で売れてしまっている現実があり、そんな中で高等学校における教育が「社会に出て一人前になる資質をどうつけているのか?」について、教育現場からの自画自賛的な発信があっても、そんなものに説得力を感じて貰えるとは到底思えない。また、学校の外から学校の課題を批判するだけの人達に、大田堯先生のような深い教育観を感じることもほぼ皆無である。

分かりやすく言えば、学校内からは「これまでの学校教育の否定を受け付けない、変わりたくない、今売れているものを手放せない」という膠着を感じるし、学校外からは「社会に出て役に立たなければ意味がないんだよ」と今社会で停滞している自分を棚に上げた無責任な教育への一方的な押し付けを感じる。

授業・家庭学習の学びを通して高校の3年間でどのように成長したのか?

行事・部活動・委員会・生徒会活動を通して高校3年間でどのように成長したのか?

高校という環境が子ども達の成長にどのような成長を促す仕組みになっているのか?

これらは、簡単に口で説明して理解して貰えるものではない。にも関わらず、学校の発信はホームページ、通信その他を通した一方的発信が中心であるように思える。そしてその発信は高大を問わず、ますます画一化しているのも以前指摘した通りである。

ここにあるのは閉じたムラ社会化した学校と、新自由主義的な価値観の中で分かりやすい「成果」を求める「お客様意識」のマインドだけではないか。また、正直個人的にはどうでもいいけど、「教育が変わらなければ」と改革を振り回すだけに見える焼き畑農業のようなどこに根があるのか、どこに向かっているのか分からないような大人のマインドもあるかも知れない。

学校は子ども達の成長のための場であるはずであるが、教員というムラ社会の大人の管理の都合から仕組みが出来ており、そこが変われていない部分も多い。また、一方でその学校を外側からPBL(Problemの方ね)の対象とばかりに糾弾し、学校そのものを壊そうとするだけの大人もいる。その動きで解放される子どもは全体のどの程度いるのか?

学校を共同体として再生する努力なしに内からも外からも変わるはずはないわけだけど、その学校が「外」と接する場としての「大学入試」に、この改革がフォーカスされてしまったのは必然のように思える。

(3)高大接続改革の意義
特に、18歳頃における一度限りの一斉受験という特殊な行事が、長い人生航路における最大の分岐点であり目標であるとする、我が国の社会全体に深く根を張った従来型の「大学入試」や、その背景にある、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を一点刻みに問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行うことが公平であるとする、「公平性」の観念という桎梏
しっこくは断ち切らなければならない。大学入学者選抜は、一時点の学力検査によってその後の人生を決定させるためのものではない。先を見通すことの難しい時代において、生涯を通じて不断に学び、考え、予想外の事態を乗り越えながら、自らの人生を切り拓ひらき、より良い社会づくりに貢献していくことのできる人間を育てることが高等学校教育及び大学教育の使命であり、これからの大学入学者選抜は、若者の学びを支援する観点に立って、それぞれが夢や目標を持ち、その実現に必要な能力を身に付けることができるよう、高等学校教育と大学教育とを円滑に結び付けていく観点から実施される必要がある。
そのためには、既存の「大学入試」と「公平性」に関する意識を改革し、年齢、性別、
国籍、文化、障害の有無、地域の違い、家庭環境等の多様な背景を持つ一人ひとりが、
高等学校までに積み上げてきた多様な力を、多様な方法で「公正」に評価し選抜すると
いう意識に立たなければならない。

⇒ ここで述べられている高大接続改革の意義には大賛成である。「従来型の選抜=公平とする」考えを全否定し、「従来型選抜=科挙=公平・公正ではない」とする改革のコンセプトを力強く訴えている。で、やっぱり、同じ疑問が生まれるんですよね・・・。それなら、なぜ「センター試験⇒共通テスト+記述式+民間英語試験」という議論に矮小化されたのか?

恐らく、現行の試験の課題にフォーカスするあまり、「18歳頃における一度限りの一斉受験という特殊な行事」の異常さよりも、「現行の試験問題をどう進化させるのか?」という方向に議論がずれてしまったように思えます。この点については、中教審の中にいるわけではないのでどういう議論でこうなってしまったのかは私などには分かりませんが、「18歳一発選抜・科挙」という課題の解決は、「高大接続」という視点ではなく、社会のグランドデザインの変更による無効化であるべきだったと思います。どんなに優秀な大学を出ても、使えない人材は切られる(高流動)。しかし、人材としてリカレントの場が保障される(高保障)。つまり解決は試験の変更ではなく、現在の社会をフレキシキュリティの方向へ持って行くこと。

正規・非正規による分断が進み膠着している社会が高流動になれば、そもそも、「学歴そのもの」が無効化される可能性も高い。当然、社会的混乱が生まれるから「高流動」と同時に「高保障」として「生涯の学び」が保障される必要がある。教育の問題を教育だけで解決しようとすることは無意味であるばかりか、非常に非生産的な結果になってしまうのではないか?

ちなみに、仮に日本がフレキシキュリティに向かうとしたら

1)低流動低保障⇒高流動低保障⇒高流動高保障

2)低流動低保障⇒低流動高保障⇒高流動高保障

3)低流動低保障⇒高流動高保障

のどのルートになるのか?ということも話題になりました。

1)の可能性が最も高い、という意見で一致してしまいました。多くの差別的構造が崩壊するには・・・。なんだかやり切れない思いです。

② 2020年7月14日 Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言(経団連)

Society 5.0に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言

まず、財界発信=悪とする考え方は、「民間 vs 公教育」という安易な二項対立にしかならないし、現在の「公教育」においても、学校は多くの民間企業やNPOなどに支えられて存在しているものだという点が話題になりました。

1976年の文科省発信(http://ur0.work/jdZV 中学校に宛てた通達です。高校は含まれていません)には

①進路指導 や学習指導 が模試などの材料に過度に依存した受験指導に偏ってはいけない。
②模試などの業者テストを授業内で扱うのは問題である。
③業者の商行為に教員が関わることはあってはならない。

といった項目が並びます。しかし、現在の多くの学校で「民間」の力を全く頼りにせずにやっていけるのか、を考えると明らかにそうとは言えないのが現状だと思います。模擬試験の校内行事化、センター試験後のデータリサーチといった受験産業活用のみならず、様々な民間の力を借りて学校教育は成り立っています。確かに、教育そのものの「民営化」は教育をpublicなものからprivateなものに変え、新自由主義的な自己責任論を土台に、教育の再配分機能を疎外することは間違いないと思います。そこにはpersonalなものを大切にする視点はない。しかし、かといって、学校の側が「民間」を「業者」と下に見る傲慢な態度もそもそもpublicの存在としての学校から逸脱している思い上がりだと私は感じています。子ども達の教育に関わるべきは学校の教員だけだという特権意識がまだまだ残っているから、「教員免許?なんぼのもんじゃい」という声も時には説得力を持ってしまうようにすら思えます。教員よりもスキルがはるかに高い方々は社会に沢山いるのですから。

私自身は多くの教育関連企業の方々や企業、NPOの方々、時には大学生からも学ぶことも多いし、進路通信やイベントなど助けて頂くことが非常に多く感謝しています。「学校に穴を空ける」ことは、一部「浮きこぼれ」と言われる生徒達の解放のためだけでなく、私たちのような学校現場という狭い世間に生きている大人以外との繋がりを子ども達に持って貰うためにも絶対に必要なことだと思っています。

ですから、Society 5.0という訳の分からないものをもちろん鵜呑みには出来ませんが、経済界から発信される内容についても、まず真摯に向き合った上で、それぞれの課題を発信出来るような姿勢を持つべきだということが話題になりました。

そういう視点で見てみると、

1)中教審・文科省の発信のソースは、経済界である場合が多く、官邸(再生会議)・国大協などの合意の上で「国策化」されていること。

2)その内容については、現代の日本社会が抱えている課題を経済界のみならず多様な有識者の知見も取り入れ見事にまとめていること。

3)「大学において求められる能力からバックキャストして」とあるが、「資本側が求める能力からバックキャストしている」こと。つまり経済界があくまで自己の存在を「教育の外」に置いている点が課題ではないか?ということ。

4)結果、社会の抱えている課題の要因を教育の課題と同一視し改善を求めていること。

5)財界の提示している教育の課題や改善案には「対面」と「オンライン」のハイブリッドも含め学校現場が取り組む価値があるものも少なくないこと。

といったことがあげられます。ここでも、学校は学校として「聖域であるべき」という考えはもちろん大きな間違いですし、かといって「日本社会の課題を子ども達がなんとかしろ」というのはよいとしても(よくないですが)、では「経済界はどう変わるの?停滞の責任、誰にあるの?」「要するに子ども達に変われと言ってる大人はどう変わるの?」「そもそもQOL高めるような人生観は子どもだけでなく私たち大人の側にも必要では?」といったことについては非常に鈍感というか、自分達の存在意義を過大評価してない?という見方も出来るように思います。

私自身まだまだ勉強不足なのでついていけていないことも多いのですが、こうした視点を与えてくれる機会を持てること自体が私は運が良いと思いますし、自分の日常にこうした学びの成果をどう活かすのかに繋げなければと改めて考えさせられました。