ESN災害時学習支援サイトに卒業生から学習アドバイスを頂きました。

http://esnenglish.world.coocan.jp/

ESN英語研究会 災害時学習支援サイトのコンテンツとして、昨年度の卒業生から、「学習についてのアドバイス」を頂きました。素晴らしい内容で感激しました!高校だけでなく、中学生にとってもよいアドバイスなるのではないかと思います。是非ご覧ください!
ファイルはPDF形式でまとめました!
http://esnenglish.world.coocan.jp/advice/advicetop.htm

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2020年入試改革とブルーム型タキソノミー

2020年に入試が変わる。
それに向けて日本の教育も大きく変わらなければならない。

この問題は私たち中高の教員だけでなく、保護者、生徒の
多くを不安にしている。

どう変わるのか、具体的な姿が見えない、というのが
最大の要因だと思うが、果たしてこの変化が正しいものなのかどうか、それも分からないからではないか?

□ 今のままの日本の教育では21世紀の世界では通用しない。
□ 大学入試を変えなければ、中高の教育も変わらない。

□ 「知識・技能」はAIに取って代わられる。これからの仕事に必要なのは思考力だ!

これが事実なのか、妥当性があることなのか、妥当性がある
とすれば、具体的にどういうケースでそう言えるのか?

私自身は、全面的に賛成でも反対でもない。

ただ、文科省を中心とする「お上」が何を発信しているのか
を考えると、ちょっと不安になる。

学力の3要素として①知識・技能 ②思考力・判断力 ③主体性・多様性・協働性 の3つに分類しているのは分かる。
これ自体は間違っていないように思う。さらに細かい分類の方が望ましいとは思うが。

ただ、それをブルーム型タキソノミー(米国の認知・教育心理学者の思考レベル分類)に当てはめ、
①=知識・理解・応用 ②=論理的思考力・批判的思考力 ③=創造的思考力に対応させ、
①のレベルをLOT(Lower Order Thinking) ②③のレベルをHOT(Higher Order Thinking)という
西欧のシステムに単純に落とし込んでいる点がどうも釈然としないのだ。

まず、日本の教育を見直す時の出発点から、西欧のモデルをそのまま取り入れて、まるで縦のものを横にするかのようにアレンジして展開する。

これって、日本人の思想家や評論家といった人たちが昔からやってきたものすごく安易な姿勢と同じではないか?

もちろん、グローバル時代に対応すべく、他国のシステムや思想を学ぶことは必要だ。

帝国主義時代の再来とか新帝国主義とも言われる現代では、武力による植民地化ではなく、
「グローバルスタンダード(アメリカンスタンダード)」と呼ばれるルールに基づき議論し
負けないことが必要な場面も多いのだろうから。

しかし、問題なのは、ゼロから何かを考えようとする姿勢を今回の教育改革でも感じられない点である。

そもそも教育とは何か?
従来の教育の成果と課題は何か?
従来の入試システムの成果と限界は何か?
子どもの発達をどう捉えるべきなのか?

それを原点から考えてはいるのかもしれないが
「西欧の最新の教育理論に基づき・・・」という姿勢が
非常に安易で怖い。

私自身は不勉強でブルーム心理学について学んだことはないが
個人的にはブルームのような段階的な思考発達モデルに
経験的に違和感を感じてしまう。

①知識・技能(知識・理解・応用)
②思考力・判断力・表現力(論理的思考力・批判的思考力)
③主体性・多様性・協働性(創造的思考力)

この3つの要素というのは、もう少し細かい要素に分解された
レーダーチャート(多角形のグラフ)で表現するのが
妥当なのではないか?

大した知識を持たない人間の中にも創造的思考力を
ある場面で発揮する人間はいる。

知識・技能が優れていても、論理的思考力も創造的思考力も
ない人間もいる。

知識・技能のレベルが5で創造的思考力が0という人も
知識・技能のレベルが0で創造的思考力が5という人も
能力の面積はゼロになる。

私の学力イメージはそんな感じだ。

創造的思考力が優れているけど知識・技能の学びが足らない人は
知識・技能を鍛えることで、トータルな思考力がUPし
結果として、創造的思考力も価値が上がる。

知識・技能の訓練が十分な人は、創造的思考力を意識して
学ぶことでパワーアップする。

仮に、それを一人の人間で行うことに限界があるとしたらチームでやればいい。

私の短い人生の中で、「学力」とか「生きる力」というのを
考えると、どうしてもそちらの方がしっくりくるのですが
皆さんはいかがでしょうか?

そもそも、AIと人間をかなり近いモデルとして想定していることにも違和感がある。

人間に知識を与えた場合とAIに知識を与えた場合とでは、結果が異なるというのが私の直観だからだ。

もしかしたら、文科省を中心とした発信に対して私の理解が
不足しているのかもしれないが、こうした議論ではなく

「新しい教育改革に反対?古い教育にしがみつく旧タイプは駄目だ!」
「グローバル教育に反対?攘夷では駄目だ!」

「文科省は結局問題開発すら出来ないのでは?今まで通りで行きましょう」

といった、変化への感情的な対立しか見えてこないのが残念だ。

更に言おう。

高校3年生終了時までに、CEFR C1~2レベルを求め、
入試問題については、「創造的思考力」までを求める
大学関係者や企業関係者の皆さん。

あなた達は学生時代にそんなスーパーな人たちだったのですか?
あなた達はそうした優秀な人材をどう育てるおつもりなのですか?
あなた達はこれまでにどう人を育て、どのような優秀な人材を輩出してきたのですか?

一部の大学生の意見ではあるけれど、
一生懸命勉強して大学に入ったら、
入試問題より頭を使わない授業ばかりでガッカリだ

そう言う生徒も少なくありませんけど・・・。

少なくとも、

「これまでの自分に何が出来たのか?」
「今の自分に何が出来るのか?」
「これからの自分に何が出来なければいけないのか?」

文科省のお役人さんも、教育評論家や教育研究所の皆さんも
私たち教員も、若者たち自身も、そこから出発し、ゼロから自分の頭で考えてみませんか?

現象学の思い出と今世界で起こっていること 内田樹さんのブログの意味を考える

右とか左とか関係なく、
トレンドや風に流されずに、
簡単に変わらない本質を学び
現実に起こっていることをそこから捉えなおして
深く考え発信し生きている人は素晴らしいと思う。

http://lite.blogos.com/article/184470/?axis&p=1

内田樹さんの日弁連での講演内容。

「今の世界は単一の「オーサー」によって操作されているわけではありません。
それぞれの地域、それぞれの領域で、自発的に無数のファクターが運動している。
もう人間のコントロールを離れている要素も多い。」

この後、内田さんの話は株の売買が人間の手を離れアルゴリズムによって
動いている実情へと続く。

「今の世界の危機」はフッサールなどの現象学者が警鐘を鳴らした最悪の未来
へと向かっているように私には思える。

難解な現象学に触れたのは大学1年生の時。
リオタールの本を訳も分からず読んでいた。
それがきっかけだ。

「生きている実感」が欲しくて、守るべきものを守れる人間に
なりたくて、強くならなければならないと「武器」をあれこれと
探していた時代。

サルトル、メルロポンティ、ブーバー、ニーチェといった
思想家の思想に触れ、分からないながらも格闘したことで
今の自分の世界観や価値観の土台がなんとなく出来た。

科学が人間の「表象レベル」を超えて発展する時、人間は最早何が
起こっているのかをイメージ出来ずに、科学をコントロールすることが
出来なくなる。核兵器や原発などがその最たる例かもしれない。

現象学の警鐘にも関わらずアメリカ的なプラグマティズムが世界を席巻し
人は「数値化出来るもの」つまり「デジタルな世界」のみに価値を置き
生き続けている。その結果何が起こるのか、それは誰にも分からない。

内田さんの次の言葉は、こうした動きが経済でも起きていることを
鋭く分析している。

「でも、それではもう経済成長ができないということがわかった。
身体というリミッターを外して、人間の経済活動を無制限のもの
にしようと考えた人がいた。それが金融経済です。
ここで起きている出来事はもう生身の人間の身体とは関わりがない。
だって、これはもう消費活動じゃないからです。
商品やサービスを買うわけじゃない。金で金を買うのです。
株を買い、不動産を買い、国債を買い、石油を買い、金を買い、
外貨を買う。これらはすべて金の代替物です。」

ここで内田さんが使っている「身体」というキーワードは重要だ。
まさに現象学が危惧したことと同じことが経済でも起こっている。

人をナイフで刺せば、目の前で人が傷つき、返り血を浴び、
我々の身体は「他者の死」を「自分の経験」として感じる。
その罪の重さを身体で知る。
しかし、ボタンを押せば大量殺戮が出来る人間、AIを用いた兵器で
人を大量に殺す人間には、「身体的な経験」は一切ない。
そこに罪の意識が生まれないとしても、不思議なことではない。

原爆を落とした飛行機の操縦士は巨大なキノコ雲を見て原爆の威力を
知った。でも、そこで生まれた地獄を彼の身体は知らない。
もし仮に、被害者全員の悲劇を一人一人自分の身体の経験として
経験したとしたら、恐らく発狂し廃人になるか、耐えられず自らの
命を断ったかもしれない。

教育の世界でも「身体」を超えた「改革」と称するものがトレンドだ。
それ自体は否定するものではないとしても、自らの「身体」でそれを
感じ、その意味を考え、将来起こることを予想する人間はほとんど
いないのではないか?

先日、NPOカタリ場さんの「カタLive」に参加してきた。

被災地に入り、被災者と直接向き合い、信頼関係を構築し
身体を持つ人と人との出会いを創り続ける活動に感動した。

4月下旬の毎日新聞の記事を読み、ICTによる教育支援を考えた自分の活動が
「身体」を伴っていないことを痛切に感じ恥じた。

AIが発達しても残る仕事は、きっと「身体」を伴う仕事になるのだろう。

大きな流れは変えられないとしても、あらゆる活動を人間の身体に取り戻す
試みを止めてはならない。
話がまとまりませんでしたが。。。

内田さんのブログを読んで、現象学のことを思い出して、今の自分の身近な
問題についてあれこれと考えてみました。

大学で学んでいる学生さんたちに言いたいです。
目の前の利益になる知を学ぶことも大事ですが、
「自分」を創る土台は学生時代に学んだことだと
思います。
役に立たないと思われるものでも、自分の「身体」が欲するものを
学んで欲しいです。

未来は科学やAIが創るのではなく、人が創るのですから。

2020年入試改革に向けて 2016年東大・一橋大記述問題に思うこと

動画ページで2016年一橋大新傾向の自由英作文と
東大の要約・和訳問題の解説を扱った。

http://esnenglish.world.coocan.jp/englishmovie.html

予備校の解答とは切り口をかなり変えて作成してみたので
これでよいのかどうか多少心もとないが、それでも
1つの解答の可能性としては提示できたのではないかと思う。

(卒業生の皆さん、他校の先生方、ご意見があれば
是非頂けると助かります!)

東大にしても一橋大にしても「記述力重視」の入試を
従来から行っており、多少切り口の変化はあると思うが
2020年の全体の方針転換をむかえても大きな変化はないのかも
しれない。もちろん、Outputで日本語よりは英語を用いたもの
をもっと重視するのかもしれないが。

「記述力重視」は悪いことではないし、今後の日本の若者を
世界に通用する人材、よりよい日本社会を創造する人材として
育てるうえで必要なことだと私も思う。○×型の問題ばかり
解いてきたような人材ではなく、「答えを創造出来る人材」
こそ必要だと思われるからだ。

ただ、授業動画を作成していて、あるいはこれまで生徒を
指導してきて、大きな問題点、いや「課題」も感じざるを
得ない。

「記述型」の試験では得点誤差が非常に大きいということである。

昨年度の高3生の授業では、和訳・要約・自由英作文などの
演習を毎時間行ったが、全ての得点を分野別にデータとして
保存してある。

それを見ても得点のバラツキが非常に大きい。
難関大に合格した学生でも、毎回安定して高得点というのは
珍しい。本校がお預かりしている生徒さんの学力が突き抜けた
学力ではないとしても、東大や一橋大でさえボーダーラインに
多くの学生が存在すること、飛び抜けた学力の学生はそうした
大学の合格者ですらごく一部だということを考えると、多くの
学生が本番の出来により得点が大きく上下しているのではない
かと思われる。

また生徒の側から考えてみると、「学力伸長の実感を持ちにくい」
ということも問題だ。勉強しているのだから、学力が落ちている
ということはないのだが、要約や自由英作文の得点が勉強すれば
するほど伸びているとなかなか実感出来ない。これは学生の側か
ら見ると、辛い。達成感がなかなか得られないのだ。

これは英語だけでなく、国語でも言えることだが、簡単に言うと
努力して築き上げてきた学力よりも、その場での問題との
相性による得点誤差の方が大きく出てしまう記述問題に対して
学習動機を維持するのが難しいということになってしまいがち
である。

私は、課題は学生ではなく出題者側にあると考える。
要するに普遍的な評価法を学生の側に提示出来ていないのだ。

特に入試では総合点は分かっても自分の書いた答案がどう評価
されたのかを知ることが出来ない。各予備校が再現答案を材料
に得点を推定し採点基準を推定して指導に役立てているが
それが精いっぱいのところで、正確なところは誰にも分からない。
恐らく大学によっても異なるのだろう。

仮に大学によって評価が異なるのだとしても、それはそれで
構わない。大学によってアドミッションポリシーは異なる訳だし
求める学生の学力も違ってよい。それでこそ大学の多様性は
保証されるし、日本の人材育成の多様性も実現する。大いに歓迎だ。

しかし、「何がどう評価されたか分からない」という状況を
放置するのはいかがなものか?学生には「○×ではない学力」
を要求し、自分たちは点数しか発表しない姿勢は明らかに
不誠実だし、自分たちの評価に対して自信が持てないのか?
と勘ぐりたくもなる。

大学入試で記述問題を出題されている担当者にお願いしたい。
少なくとも採点基準を発表して下さい。
そこに各大学の考える「思想」が必ず出てくるはずだから。

そんなことをすれば、予備校産業を中心とした「対策競争」
を加熱させるだけだとお答えになるのでしょうか?
いやいや、すでにそうなっています(笑)。
受ける教育による得点力の方が、参考書によって独自に創り上げる
学力よりも大きくものをいう問題を出題されているわけですから。

変わらなければならないのは子ども達ではなく
大人の側ではないか?

この問題に限らず、教育が論じられる時には
どうしてもそう思ってしまうのは私だけでしょうか?

動画更新 約50本達成

熊本の震災で学べなくなった子供たちに関する新聞記事を読み
何か出来ることをと思って始めた授業動画作成。

5月の連休から少しずつ作成し、ようやく約50本になった。

残念ながら、今の私の力では、被災地の子ども達の
お役に立つことは出来ないままだが、ツールの使い方も
少しずつ覚えながら、以前よりはスムーズに作成出来る
ようになった。

まだまだ私の今の力では遠い被災地に教育を届ける
などといったことは出来そうもないが、一歩でも
前に進めるように日々頑張りたいと思う。

もちろん、今担当している生徒達にも
「今の私が出来る最高のもの」を与えられるように
頑張っていきたい。

Active Learningについても
ICT活用についても
IBやTOKについても

私はへそ曲がりというか、
その効果については依然懐疑的な部分を持っている。

ただ、学ばずに毛嫌いしたりするのは不味いわけで
今回の授業動画作成は、自分の授業改善の大きな
ヒントになる。

まず、自分の授業を客観的に他者として見れる。

□「え~」が多いなぁ…。

□ ちょっと待て、今の説明だと分かりにくい…。

□ 実際の授業なら、どこで生徒を動かす?

□ 生徒はこれで出来るようになるのか?

こうしたことを考えるヒントや材料を
自分の授業動画から得られるのは財産だ。

私は不器用な教員だが、とりあえず自分が動くこと
でしか若者は動いてくれないという信念はある。

恩師である浅野高校のY先生は、郷土の山口の
維新志士達の熱烈なファンで郷土史家でもあるが
幕末の松下村塾の「教え」「学び」に共感し
熱い授業を私たちにぶつけてくれた。

教育に行き詰ると、Y先生の言葉が浮かぶ。

「結局、分かってくれよ!俺こんなに一生懸命なんだよ!
それしか若者には届かない」

この言葉は、教員を長く続けていけばいくほど身に染みる
言葉だ。
目の前の若者と繋がること。
目の前の若者を学びと繋げること。
それを日々継続させること。

新しい教育を検討されている先生方も日々迷い
奮闘なさっている。

多くの場合、方法論や教育効果に目が行きがちであるが
本質がそこにあるはずはない。

学び続ける人材、学びと繋がり続ける人材
そうした人材をどれほど生み出せるか?

短期的な教育効果をシビアに測るのもよい。
進学実績も逃げるべき物差しではなく、シビアに測ればよい。
楽しく学ぶ今の子ども達の姿に喜びを感じるのもよい。

だが、本当の成果はその先にあることを忘れてはならないと
改めて思う。

また、なんか話それましたね(^_^;)。

要するに、

□ 新しいこと始めて頑張って続けたら動画50本出来た!
□ 被災地支援は全然駄目。未熟!学んで成長する!
□ 動画作成は自分の客観視によい!
□ 新しい授業の可能性を!でも現場が大事!
□ 大人も努力する、進化することが大切!
□ やはり教育は人と人との繋がりが生むもの!
□ 教育の成果は、あらゆる「物差し」から逃げては駄目!
□ 教育の成果は、目先の子どもの笑顔で止まっても駄目!
□ 学び続ける人材を育てよう!

ってことです。

日本の生徒は「儀礼的」に教師に従っているだけ か?

2016.6.7 Newsweek 日本語版で教育社会学者の舞田敏彦氏が
興味深い記事を書いている。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/06/post-5268.php

15歳の生徒に普段の様子を尋ねた統計だが、具体的内容は

「生徒は教師の言うことを聞いていない」
「生徒は騒ぎ、授業の妨害をする」

に対して「いつも(大抵)そうだ」という回答の比率をグラフにしたもの。

日本は世界で最も授業内での「秩序」が保たれている社会だと分析している。

一方で、舞田氏は「私は、大抵の先生とうまくやっている」という指標では
日本は最下位になるという結果を紹介し、日本の学生を「儀礼型適応」
と分析している。

まず、この分析が正しいものなのかどうか?

Critical Thinking を用いれば

① 「生徒は教師の言うことを聞いていない」
② 「生徒は騒ぎ、授業の妨害をする」
③ 「私は大抵の先生とうまくやっている」

の3つの質問内容ともに、正確にFactを導き出せるかどうか怪しい。

①~③ともに、「客観的な物差し」が存在する訳ではない。

意識の高い生徒が集まり、レベルの高い講義をする教師がいたとする。

その中で「寝て雰囲気を壊す生徒」がいれば、周りの意識の高い学生は
①の回答の結果はかなり悪くなるだろうし、生徒集団の意識レベルが
低ければ回答の結果はかなり悪い状況でも悪くはならない。

②についても、廊下をバイクに乗って窓ガラス割りながら走る生徒が
いるレベルから、ちょっとした私語まで程度は不明な質問。

③についても、求めるものが大きければ親密な関係にあっても
不満が出てくるし、求めるものや期待が小さければ「別に自分の
人生の邪魔にならない。先生との関係ってそんなものでしょ?」
ということなら悪くならない。

多くの世論調査と同じで、「誰にどのような聞き方をしたのか?」に
よって結果は大きく異なるし、どういうタイミングで聞かれたかによっても
結果に誤差は生じるだろう。

問題なのは、そうした「あやふや」なデータを「数字」にして
あたかも客観的データとして処理をする報道や発信が世の中
にあふれているということだろう。

PISAのテストのスコアについても、英語力の指標としてのTOEFLの
平均点にしても、それが「国益・国力」や「個人の自己実現」に
どう相関しているのかを検証せずに、数字が一人歩きしてしまう。
以前このブログで取り上げた、「大学国際ランキング」も同じだ。
さて、データの信憑性や意義について大きな疑問はあるものの

「今後の日本の教育は集団秩序維持・管理中心でよいか?」

というのは考察に値するテーマだと思われる。

氏は

①「儀礼的に教師に従う日本の適応様式は、内面の同調を伴わない
儀礼的なものであり、単純に誇れるものではない。」

②「ブラック企業がはびこる土壌になっている」

③ 「学校がすべて」という現状からの変化が必要

などとしているが、①については共立女子第二中高のI先生が私のFacebookで鋭くご指摘してくださったように、「内面の同調」まで生徒に求めること自体の不健全さを私も感じる。

今回の記事によって紹介されているデータは、私個人としては

1)学校の秩序維持は大いに結構
2)内面の同調など不要。されたら気持ち悪い。自立しろ!
3)ただ、「闘うべき時は闘え!」相手が私でも校長でも!

としか思わない(笑)。

大人との「ズレ」や「違い」に向き合いながら子どもは大人になるもの。
「内面の同調」を求めるのは「一体化」を求める親と同じで危険だと
私も思う。第一サンドバックやスパーリングの相手も出来ない大人では
申し訳ない。能力以前に大人としての覚悟もないのか?

③については、確かに「学校がすべて」ではおかしいが問題が違うと
考える。今回のデータを基に、それも1961年の海外の研究者の論を
用いて「学校絶対信仰」の根にあるものだと断ずるのは乱暴。

ただ、②は、私も同感。

本校は、全国的に見れば驚くほど「秩序」が保たれている学校だと
言えると思う。具体的に多くの学校と比較したわけではないが
他校の授業見学などをするといつも本校の生徒の「授業参加姿勢の
行儀の良さ」を感じることが多い。

しかし、卒業生の中には、「ブラックバイト」や「ブラック企業」の中で
苦しい思いをしてしまう生徒もいることは事実である。
それもある程度耐えられる点は大いに評価出来るが、彼らの将来を
考えるとリスクも大きいと心配になってくる。

もちろん、学生時代に反骨心旺盛でも世の中に出たらブラックな組織の中で何も出来ないという人もいるから、学生時代に素直なのがいけないとは言えない。

学ばないといけないということだ。

10年ほど前から、教員として大きな疑問を持ち始めた。

昔なら、「苦労していれば、見てくれている人はいる。頑張れ!」と
言えたが、最近はどうだろう?派遣社員として人材を使い捨てにする
企業や社会を考えると、

「素直に言うことをきくだけの人間を育ててよいのか?」

「組織の役に立たずに文句を言うのはまずいが、組織にとって有益な
人材だからこそ、言うべきことを言える人材にしないと世の中全体が
ますます悪くなるのではないか?」

私自身世間知が高いとは思えないし組織の役に立ててるとはとても言えないが、それでも組織との闘いの経験はある。
少しでも「戦い方」も伝えるべきでは?学生生活の中でそうした経験も必要なのでは?

そのためには、「教師」が絶対者として君臨するような徹底した管理型
教育では駄目なのは確かだ。

だからと言って、安易な政治的活動を生徒と教員がやるのもどうかとは思うが。身の丈にあった課題に全力でぶつかればよい。もちろん、高校生の日常にだって思わぬ大きな課題が舞い込む偶然もある。その時は、やるだけやってやれ!と私も応援することにしている。

最近流行している「アクティヴラーニング」などもそうした文脈で考えれば
当然必要な取り組みの1つになるだろう。

ただ、である。

「ゆとり教育」にせよ、「グローバル教育」にせよ、文言は決して
間違っていない教育指針がまともに機能しなかったり、逆に暴走して
しまうのは何故なのか?

私は、「教育」がどういう社会を創るのかということについて、大人側の
想像力が致命的に欠落しているからだと思わざるを得ない。

現在の教育を全否定し、「これからは○○教育だ」と叫ぶ人たちの頭の中に
それが実現した場合の「未来の社会の姿」がほとんどないのが怖い。

たとえば、「ゆとり教育」の是非については色々あるだろうが、まだその教育を
受けた人材がどのような人材として育ち、どのような社会を創るのか
について検証もないまま、新しい方針を打ち立てる。それも、自分たちの
責任を問われないように、狡猾に「ゆとり」を「焼き直し」ながら。

私は「ゆとり教育」をよいとは思わない。念のため。

ただ、検証もせずに新しいモデルを提唱する節操のなさにうんざりだ。

そして、2020年の大改革と言われる平成の教育改革にも、「将来このような
社会を実現し日本をよりよい社会として進化させたい」という理念は見えない。

あるのは、「これからはグローバルだ。これからは発信力だ。これからは
思考力だ。イノベーションだ。」というトレンドの連呼。

「教育」について語るのは簡単だ。プロ野球について語るのと同じくらい
ハードルが低い。誰もが評論家になれる。

しかし、それぞれの問題意識は尊重されるべきだが、「改革案」を実現したら
何が起こるのかについての慎重な考察や、今後向かうべき「社会」の姿を
見据えた上で議論しなければ、大きな失敗をすることになる。

その失敗はもしかしたら取り返しがつかないものかもしれないのだ。

そして、その失敗によって出来上がった社会で苦しい思いをするのは
今の若者であって、現役の役人や評論家などではない。

「教育」を語るなら、せめてその程度の覚悟くらいは持って語りたいですね。

ESN災害時学習支援サイトにこれまでの記録を加えました

久保先生からご依頼があり、学習支援サイトに「ESN学習支援記録」を加えました。

http://esnenglish.world.coocan.jp/

ホームページビルダーを使いこなせていないので、過去のESNの記事の切り貼りで、フォントもサイズもバラバラですが、ご容赦下さい(^_^;)。

「何とか力になりたい」という気持ちはありますが、まだ何もお力になれていないのが現状です。

そもそも、「支援」とか「力になる」とか、そういう言葉を発すること自体が傲慢、僭越、浅はかなのかもしれません。

でも「何が出来るか」を考えること、熊本の子どもたちが前向きに力強く歩いて行けるようにエールを送り続けること、そしてちゃんと人として向き合っていくこと。

まだまだ試行錯誤、暗中模索の状態ですが、多くの方々の想いが少しでも力になることを願って出来ることを頑張っていきたいと思います。

今後ともよろしくお願い致します。

 

 

2016 横浜ハンドメイドマルシェ

3500人のクリエイターが参加。

パシフィコ横浜で行われたイベントに参加してきました。

同じ形のアクセサリー
同じ形の持ち物
同じ間取りのマンション

大量生産による規格モノや
ブランド品が溢れる世の中で、
世界中に同じものが存在しない
手作りの宝物がいっぱい

老若男女関係なく
みんなが笑顔で生き生きして
見えるのがなんだか素敵でした。

ふと帰りの電車で考えたのは…。

私たちの教育は、大量生産、ブランド生産になっていないか…。

教育は、ある意味で「人を型にはめること」

社会が壊れてしまわないために、それも時に絶対に必要だと思います。

でも、それが行き過ぎれば、人の世は退屈になるどころか
生気を失ってしまうのではないか。

ふと、これまでの卒業生の顔が浮かびました。

よかった。大丈夫だ。

ま、私の場合は出逢いに恵まれてるだけですが。

やはり私達教員にとっての宝は教え子たちですね。

 

 

各大学の受験生支援リンク更新しました。

http://esnenglish.world.coocan.jp/

各大学の受験生支援リンク更新しました。

5月下旬になって少しずつ被災地の受験生の入学検定料免除などのお知らせが増えてきました。

ただ、被災地の受験生が進学を諦めず自分や家族や仲間の将来のためにも大学進学を前向きに考えられるような支援はなかなか難しいのでしょうか…。

理不尽な出来事は震災に限らず、誰の人生にも大きな影響を及ぼします。

その全てを解消することは出来ません。

それでも、少しでも多くの志ある若者が元気になれるようなメッセージを各大学には期待したいです。

5年後、10年後に「生き残る会社」「消えている会社」

「週刊現代」の2016年5月21日号で、将来性のある業種・企業と
そうでない業種・企業についての記事があり、興味深く読ませて頂きました。

http://news.line.me/issue/oa-gendaibusiness/1jeaf1of59ohc

これだけ変化の激しい時代では、5年後どころか来年のことすら見通すことは
難しいと思いますが、中学や高校の現場で進路指導をしていてずっと
気になっていることがあります。それは

昔も今も、中高生がトレンドに流されやすい ということ。

2014年度入試までは「文低理高」

ところが、大学生の就職率が良好になった途端、2015年度、2016年度入試は
「文高理低」にシフト。

これは、最近に限ったことではありません。
不景気になると、薬学部の偏差値が医学部までとは行かないまでも
異常値になったことさえあります。

最も厳しい時代には、文系で早慶レベルを狙える生徒が敢えて理系を
選択し、薬学部を目指すといった話も優秀な進学校ではあると
聞いたこともあります。

2002年前後やリーマンショック以降の理系人気、薬学部ブームなどで
理系の指導にご苦労なさった先生方も多いのではないでしょうか?

でも、ブームというかトレンドはあっと言う間に去り、
損得勘定で進路選択した学生が、ある意味損をする…。

ただ、これは最近の若者に限ったことではないですね。

私たちの頃だって、ドラマに影響を受けて特定学部に
大量の受験者が集中することもあったし、バブルの頃には経済系・法学系の
人気は当然高かった。社会に出るか出ないかで「バブル崩壊」を経験する
ことになった訳ですが…。

マスコミ人気も高かったですが、現在の「斜陽」を予期していた学生が
どれだけいたか?私自身も含め、予想もしていなかった人間がほとんどだと
思います。

トレンドに乗ってしまう安易な進路選択をなんとかしようと
導入されてきたのが、「自分探し型キャリア教育」なのかもしれません。

どうなっても、自分で選んだんだから、納得出来るということでしょうか。

ただ、中高生の進路意識や動向は本質的に何も変わっていないように
見えるのは一体何故なんでしょう?

もっと昔を考えると、選択肢そのものが限られていた時代があったと思います。

親が商売してるから、継ぐのが当たり前。

それが不幸だったか幸福だったかは、それぞれでしょうが
いずれにしても、選択肢が限られていた時代には、
「進路」は今よりもずっと「リアルなもの」
だったように思います。

本で読んだり、ドラマで見て憧れたりといったものではなく
親が働いている姿を毎日見て、人生を親の背中から学んで・・・。

二世議員の是非が議論されることも多いですが、「おいしい仕事だから
親が子どもに勧める」という面はあるにしても、「議員」という仕事の
リアルを知っているという意味では、普通の人よりもはるかに「議員」
という道を「リアル」に見て知っている。いいこととは限りませんが。

いずれにしても、大半の学生が安易なトレンドに流されてしまうのは、
仕事を「リアル」に感じられないからではないかと思います。

だから、「キャリア教育を!」 だから、「自分探しを!」

果たしてそうなのか?

正直言うと、私個人は、あまりそう思っていません。

なぜなら、いくら「リアルに知る」ことを追求しても、それすら
変わってしまう時代なのですから。

高校生として日常の中で、目先の損得ではなく、何でも貪欲に学ぼうとすること。

志望だけではなく、自分を磨き、自分をどう社会で役立てるかを考え、適性を最大限活かすという視点もしっかり持つこと。

時代が変わって、やるべきことが変わっても自分を変えることが出来る人材を
育てるには、そういう学生生活をおくって貰うしかないように思います。

また、「変化」に対して我々大人も苦しみながらも自分を磨き、変えていく姿勢
を持たなければ…。子ども達は私たち教員のことも見て育っている訳ですから。

アクティヴラーニングもグローバル人材育成もICT教育も正直疑問ですが、
だからと言って、居心地のよい場に安住することは許されないと思って
仕事をしているつもりです。

なんだかまとまりのない話になりましたが、色々なことを考えさせられる
記事でした。