「3の0乗は1」の話

ある生徒が、「3の0乗はなんで1なんだぁ」
と叫んでいた。

ふと、気になった。
私も訳が分からない。
なんで「3の0乗は1」なんだろう?

数学の先生に聞いてみた。

「何に3をかけたら3になりますか?」

1でしょ?

「だから3の0乗は1なんです」

訳分からない。

別の説明を受けた。

「3の1乗は3、2乗は9、3乗は27。
3乗⇒2乗⇒1乗での変化に対応して
それぞれ1/3になっている。だから、3の0乗は1」

なるほど!!すごい!分かった!!

ん?待てよ。ところで3の0乗って何しているの?

3を2回掛けるのが3の2乗。

3を0回掛けるってどういうこと?

すると、その数学の先生がボソリと一言。

「細胞分裂ですかねぇ・・・」

しばらく考えた。

● ⇒ ●●● ⇒ ●●● ●●● ●●●

なるほど!!!!今度こそ分かった。

1回分裂すれば=1乗 3、2回分裂すれば=2乗 9。

0回分裂すれば=1だぁ!!!!

だから、4個に分裂しようが、5個に分裂しようが
分裂回数0を意味する0乗は全て1になるのか!

ここで、恐ろしいことに気づいてしまった。

あれ?数学のこんな基本的な計算と細胞分裂の発見って
どちらが先だ???

数学・・・かな?

だとしたら、数字が作り上げる高度なゲーム的な世界が
表現するものが、自然界に既に存在しているということ!?

数学の学び方を間違えていたことに50歳近くになって
ようやく気づいた。

数学は現実世界の現象を説明するものではなく、
現実世界の現象に先行するもの?

数学世界が表現することが一体何を意味するのかなんて
数学が表現した時点では分かっていないことが多いのか?

数学を学んでこなかったことを後悔した。

「意味」が先にあって「動機」ではない。
「実践」が「動機」を生み、「意味」に繋がることもある。

数学を真剣に学んでいれば、「世界」に大きな「意味」を
見出せたことも別の角度からあったのかもしれない。

いつも生徒に言ってきたことだが、自分ができていない。
今からでも勉強しよう。「世界」に出会うために。

逆に怖い話。

経済の世界などで数学が高度に応用されていると聞く。

ならば、数学により構築される「経済学・理論」の世界は
まだ「現実」を表象できないレベルにあるはず。

ある数式や数学的表現によって表される世界に土台を置いた
経済学や経済理論というものが、「現実世界」に何を
もたらすのか分からないのだ。

もしかしたら、「破滅」を表現しているものなのかもしれない。

そう考えるとぞっとする。

答は出ない。

円周率は無限と思われる暗闇へと続いている。

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「解なき時代」の教育?

最近よく耳にするのが
「解なき時代の教育」

従来型の教育では
「解なき時代」には対応出来ない。

本当にそうなのか?

そもそも、これまでの時代は「解がある時代」
だったのか?

人類は常に「解なき時代」を生き
「解」を創造し続けてきたのではないか?

「解」が明確であったのは
産業界に必要な人材像とか
国益に繋がる人材像とか
そういうものなのではなかったか?

経済界で有益な人材とは?が「問い」で
「前例踏襲をしっかり行える」が「解」であるような
そんな単純な世界の話ではないか?

たかが、と言えば傲慢であるが
そんな程度の変化を根拠に
教育の変革を訴える声には
どうしても懐疑的にならざるを得ない。

さて、「解なき問い」に対応する時に
必要なことは何か?

これまでも、同じだったのではないか?

つまり、先人達の問題意識や知識を十分に踏まえて
自分の「解」を創り出すこと。

「いま世界の哲学者が考えていること」(岡本 裕一朗 氏)

この本を読むと、世界の偉人たちが
「解のない」様々な分野で
必死に悪戦苦闘してきたこと、悪戦苦闘していることが伺える。

文理を問わず、洋の東西を問わず、人間とはそうやって
生きてきたのではないか?

突然「解なき世界」になり、
これまでとは違う教育や学びが必要だと言う時
「これまでの人類は解のある世界で生きてきた」
と考えるのなら、それは現代人の大きな傲慢であると
感じるのだが。

今を生きるということ

人生がつまらないと感じていた時期があった

昨日と同じ今日
今日と変わらないであろう明日

こんな日常が延々と続いて行く

うんざりだ。。。
そんな思いに支配されかかっていたある日

当時、非常勤で勤務されていた先生から1枚の写メが届いた

私が当時住んでいた近所の庭園の紅葉の写真

すぐに起きて、庭園に向かった

こんな近くに美しい景色はある
いつでも行けると思っていた

昨日と同じ今日があるのではない
今日と同じ明日が続くのではない

いつでも行ける
そう思う心が世界をそう見せているだけ

死を覚悟して生きよ
ハイデガーら実存主義者の言葉

激しく消耗する生ばかり定期的に繰り返してきた

そんな疲れた自分を救ってくれたのは1枚の写真

そして、何でもないところに答えはある

いつでも出来る
そう思っていることを大切に

いつでも出来る
そう思っていることを今やろう

2020年型の入試問題を作成してみました

石川一郎氏の「2020年の大学入試問題」(講談社現代新書)
で紹介されていた2015年順天堂大医学部の小論文の問題
を参考に、オリジナルで似たような問題を作成してみました。

2015年 順天堂大医学部小論文問題

キングスクロス駅の写真を見て、感じるところを
800字以内で述べる問題。

そして私が作成した問題

下の絵は1938年に描かれたサルバドール・ダリの「山の湖」(Mountain Lake)という作品です。あなたの感じるところを自由に述べなさい。

作成は簡単。
模範解答作成も簡単。
難しいのはどう採点するか?

論理的思考力はともかく、
批判的思考力、創造的思考力なるものは果たして
数値化可能なのだろうか?

まだまだ考えてみないと答えは出ない。

ちなみに私の作成した模範解答は以下の通り。
皆さんは、この絵から何を感じ、何を語りますか?

<模範解答>
日常生活の中で、あるいは自然という空間の中で、電話機と湖が混在する風景など世界中どこを探しても皆無であろう。そういう意味で、この絵は日常を超えた非日常的な、非現実的な空間を表現していると言える。しかし、不思議なことに、この絵は見る者の心になぜか日常的で現実的な大きな「悲哀」の感情を掻き立てるのではないだろうか。
絵の中央に表現されている電話の受話器は、電話機本体ではなく、地面に突き刺さった物干し台の棒のようなものに掛けられている。山の中の湖はかなり干上がっており、ゴツゴツとした醜いありのままの姿をさらけ出しているようにも見える。湖とともに描かれている山の風景の中にも、どこを探しても生き物の姿はなく、山の稜線は激しく尖り、絵の全体に殺伐とした空気が広がっている。私はこの絵の中に人間という存在が本質的に背負っている、どうしようもない孤独の悲哀を感じる。湖は他と断絶した地形的特徴から文学の世界では他者と繋がることが出来ない個の存在、つまり孤独の象徴として用いられることもあるが、この絵の中のかわいた湖も満たされることのない人間の深い孤独感を表現しているのではないか。人は一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在である。多くの人と関わり、日常生活の様々な雑事に忙殺され、寂しさを忘れていたとしても、人間の存在そのものの入口と出口に、個として誕生し、個として死んでいくという宿命を背負っている限り、孤独ではない人間など存在しない。それでもこの絵の中の受話器と絵の外の世界を繋ぐ電線は外の世界へと通じている。電話機本体を持たないこの電話は機能しないのであろうか。この電線は絵の外の世界と繋がっているのであろうか。たとえ繋がっていたとしても、湖そのものが他者と交わることはないのかもしれない。湖という孤独な存在が他と繋がり満たされることはないのかもしれない。しかし、この風景の外へと伸びる電線に、他者との関わりを求める人間の根源的な渇望を感じざるを得ないのである。(830字)

<高3生へのメッセージ>
皆さんは、ダリの絵に何を感じましたか?芸術の鑑賞に様々なものを持ちこむのは正しいことではなく、絵は絵として映画は映画として、音楽はただ音楽としてそのまま感じればよいのだと思います。なので、今回のように芸術批評のようなことをするのはあまり好きではありませんし、そもそも言葉で絵の素晴らしさを表現出来るのであれば、作者自身が絵ではなく言葉で表現することを選んでいるはず(評論家どもは偉そうなこと言う前に自分で表現すればと思うので評論には興味ない)。ただ、「新しい時代の新しい学力(こんなものが何を実現するのかには私自身はかなり懐疑的なんですけどね)」なんてものを、意表をついて出題される君たち受験生は、自分の感情や意見を、論理的に創造的に表現することを求められますし、受験で問われなくとも、今後の人生ではあらゆる場面で「自分はどう考えるか?」が問われることになるでしょう。それが出来なければ、どんな言い訳をしたところで他者に流されてしまったり、情報に翻弄され社会全体の中で個を埋没させて生きてしまうことにだってなりかねません。

アドラー心理学

勉強したいけど、やる気が出ない・・・。

そうではなく、本当は勉強したくないから
やる気が出ないという理由を後から作って
自ら選択している。

今勉強したいと思ってたのに
お母さんが勉強しろというからやる気がなくなった。

そうではない。
お前の勉強したいはその程度で
本当はやらなくてよい理由を探しているだけだ!

人のせいにするな!
言い訳するな!

やる気があるからやるのではない!
自分の人生!
やるのもやらないのも自分で決めろ!
自分で決めた結果は自分で引き受けるしかない!

大学に入ってつまらない?
甘えるな!
つまらないのはお前だ!

いい加減目を覚ませ!

ESN災害時学習支援サイトに卒業生から学習アドバイスを頂きました。

http://esnenglish.world.coocan.jp/

ESN英語研究会 災害時学習支援サイトのコンテンツとして、昨年度の卒業生から、「学習についてのアドバイス」を頂きました。素晴らしい内容で感激しました!高校だけでなく、中学生にとってもよいアドバイスなるのではないかと思います。是非ご覧ください!
ファイルはPDF形式でまとめました!
http://esnenglish.world.coocan.jp/advice/advicetop.htm

2020年入試改革とブルーム型タキソノミー

2020年に入試が変わる。
それに向けて日本の教育も大きく変わらなければならない。

この問題は私たち中高の教員だけでなく、保護者、生徒の
多くを不安にしている。

どう変わるのか、具体的な姿が見えない、というのが
最大の要因だと思うが、果たしてこの変化が正しいものなのかどうか、それも分からないからではないか?

□ 今のままの日本の教育では21世紀の世界では通用しない。
□ 大学入試を変えなければ、中高の教育も変わらない。

□ 「知識・技能」はAIに取って代わられる。これからの仕事に必要なのは思考力だ!

これが事実なのか、妥当性があることなのか、妥当性がある
とすれば、具体的にどういうケースでそう言えるのか?

私自身は、全面的に賛成でも反対でもない。

ただ、文科省を中心とする「お上」が何を発信しているのか
を考えると、ちょっと不安になる。

学力の3要素として①知識・技能 ②思考力・判断力 ③主体性・多様性・協働性 の3つに分類しているのは分かる。
これ自体は間違っていないように思う。さらに細かい分類の方が望ましいとは思うが。

ただ、それをブルーム型タキソノミー(米国の認知・教育心理学者の思考レベル分類)に当てはめ、
①=知識・理解・応用 ②=論理的思考力・批判的思考力 ③=創造的思考力に対応させ、
①のレベルをLOT(Lower Order Thinking) ②③のレベルをHOT(Higher Order Thinking)という
西欧のシステムに単純に落とし込んでいる点がどうも釈然としないのだ。

まず、日本の教育を見直す時の出発点から、西欧のモデルをそのまま取り入れて、まるで縦のものを横にするかのようにアレンジして展開する。

これって、日本人の思想家や評論家といった人たちが昔からやってきたものすごく安易な姿勢と同じではないか?

もちろん、グローバル時代に対応すべく、他国のシステムや思想を学ぶことは必要だ。

帝国主義時代の再来とか新帝国主義とも言われる現代では、武力による植民地化ではなく、
「グローバルスタンダード(アメリカンスタンダード)」と呼ばれるルールに基づき議論し
負けないことが必要な場面も多いのだろうから。

しかし、問題なのは、ゼロから何かを考えようとする姿勢を今回の教育改革でも感じられない点である。

そもそも教育とは何か?
従来の教育の成果と課題は何か?
従来の入試システムの成果と限界は何か?
子どもの発達をどう捉えるべきなのか?

それを原点から考えてはいるのかもしれないが
「西欧の最新の教育理論に基づき・・・」という姿勢が
非常に安易で怖い。

私自身は不勉強でブルーム心理学について学んだことはないが
個人的にはブルームのような段階的な思考発達モデルに
経験的に違和感を感じてしまう。

①知識・技能(知識・理解・応用)
②思考力・判断力・表現力(論理的思考力・批判的思考力)
③主体性・多様性・協働性(創造的思考力)

この3つの要素というのは、もう少し細かい要素に分解された
レーダーチャート(多角形のグラフ)で表現するのが
妥当なのではないか?

大した知識を持たない人間の中にも創造的思考力を
ある場面で発揮する人間はいる。

知識・技能が優れていても、論理的思考力も創造的思考力も
ない人間もいる。

知識・技能のレベルが5で創造的思考力が0という人も
知識・技能のレベルが0で創造的思考力が5という人も
能力の面積はゼロになる。

私の学力イメージはそんな感じだ。

創造的思考力が優れているけど知識・技能の学びが足らない人は
知識・技能を鍛えることで、トータルな思考力がUPし
結果として、創造的思考力も価値が上がる。

知識・技能の訓練が十分な人は、創造的思考力を意識して
学ぶことでパワーアップする。

仮に、それを一人の人間で行うことに限界があるとしたらチームでやればいい。

私の短い人生の中で、「学力」とか「生きる力」というのを
考えると、どうしてもそちらの方がしっくりくるのですが
皆さんはいかがでしょうか?

そもそも、AIと人間をかなり近いモデルとして想定していることにも違和感がある。

人間に知識を与えた場合とAIに知識を与えた場合とでは、結果が異なるというのが私の直観だからだ。

もしかしたら、文科省を中心とした発信に対して私の理解が
不足しているのかもしれないが、こうした議論ではなく

「新しい教育改革に反対?古い教育にしがみつく旧タイプは駄目だ!」
「グローバル教育に反対?攘夷では駄目だ!」

「文科省は結局問題開発すら出来ないのでは?今まで通りで行きましょう」

といった、変化への感情的な対立しか見えてこないのが残念だ。

更に言おう。

高校3年生終了時までに、CEFR C1~2レベルを求め、
入試問題については、「創造的思考力」までを求める
大学関係者や企業関係者の皆さん。

あなた達は学生時代にそんなスーパーな人たちだったのですか?
あなた達はそうした優秀な人材をどう育てるおつもりなのですか?
あなた達はこれまでにどう人を育て、どのような優秀な人材を輩出してきたのですか?

一部の大学生の意見ではあるけれど、
一生懸命勉強して大学に入ったら、
入試問題より頭を使わない授業ばかりでガッカリだ

そう言う生徒も少なくありませんけど・・・。

少なくとも、

「これまでの自分に何が出来たのか?」
「今の自分に何が出来るのか?」
「これからの自分に何が出来なければいけないのか?」

文科省のお役人さんも、教育評論家や教育研究所の皆さんも
私たち教員も、若者たち自身も、そこから出発し、ゼロから自分の頭で考えてみませんか?

現象学の思い出と今世界で起こっていること 内田樹さんのブログの意味を考える

右とか左とか関係なく、
トレンドや風に流されずに、
簡単に変わらない本質を学び
現実に起こっていることをそこから捉えなおして
深く考え発信し生きている人は素晴らしいと思う。

http://lite.blogos.com/article/184470/?axis&p=1

内田樹さんの日弁連での講演内容。

「今の世界は単一の「オーサー」によって操作されているわけではありません。
それぞれの地域、それぞれの領域で、自発的に無数のファクターが運動している。
もう人間のコントロールを離れている要素も多い。」

この後、内田さんの話は株の売買が人間の手を離れアルゴリズムによって
動いている実情へと続く。

「今の世界の危機」はフッサールなどの現象学者が警鐘を鳴らした最悪の未来
へと向かっているように私には思える。

難解な現象学に触れたのは大学1年生の時。
リオタールの本を訳も分からず読んでいた。
それがきっかけだ。

「生きている実感」が欲しくて、守るべきものを守れる人間に
なりたくて、強くならなければならないと「武器」をあれこれと
探していた時代。

サルトル、メルロポンティ、ブーバー、ニーチェといった
思想家の思想に触れ、分からないながらも格闘したことで
今の自分の世界観や価値観の土台がなんとなく出来た。

科学が人間の「表象レベル」を超えて発展する時、人間は最早何が
起こっているのかをイメージ出来ずに、科学をコントロールすることが
出来なくなる。核兵器や原発などがその最たる例かもしれない。

現象学の警鐘にも関わらずアメリカ的なプラグマティズムが世界を席巻し
人は「数値化出来るもの」つまり「デジタルな世界」のみに価値を置き
生き続けている。その結果何が起こるのか、それは誰にも分からない。

内田さんの次の言葉は、こうした動きが経済でも起きていることを
鋭く分析している。

「でも、それではもう経済成長ができないということがわかった。
身体というリミッターを外して、人間の経済活動を無制限のもの
にしようと考えた人がいた。それが金融経済です。
ここで起きている出来事はもう生身の人間の身体とは関わりがない。
だって、これはもう消費活動じゃないからです。
商品やサービスを買うわけじゃない。金で金を買うのです。
株を買い、不動産を買い、国債を買い、石油を買い、金を買い、
外貨を買う。これらはすべて金の代替物です。」

ここで内田さんが使っている「身体」というキーワードは重要だ。
まさに現象学が危惧したことと同じことが経済でも起こっている。

人をナイフで刺せば、目の前で人が傷つき、返り血を浴び、
我々の身体は「他者の死」を「自分の経験」として感じる。
その罪の重さを身体で知る。
しかし、ボタンを押せば大量殺戮が出来る人間、AIを用いた兵器で
人を大量に殺す人間には、「身体的な経験」は一切ない。
そこに罪の意識が生まれないとしても、不思議なことではない。

原爆を落とした飛行機の操縦士は巨大なキノコ雲を見て原爆の威力を
知った。でも、そこで生まれた地獄を彼の身体は知らない。
もし仮に、被害者全員の悲劇を一人一人自分の身体の経験として
経験したとしたら、恐らく発狂し廃人になるか、耐えられず自らの
命を断ったかもしれない。

教育の世界でも「身体」を超えた「改革」と称するものがトレンドだ。
それ自体は否定するものではないとしても、自らの「身体」でそれを
感じ、その意味を考え、将来起こることを予想する人間はほとんど
いないのではないか?

先日、NPOカタリ場さんの「カタLive」に参加してきた。

被災地に入り、被災者と直接向き合い、信頼関係を構築し
身体を持つ人と人との出会いを創り続ける活動に感動した。

4月下旬の毎日新聞の記事を読み、ICTによる教育支援を考えた自分の活動が
「身体」を伴っていないことを痛切に感じ恥じた。

AIが発達しても残る仕事は、きっと「身体」を伴う仕事になるのだろう。

大きな流れは変えられないとしても、あらゆる活動を人間の身体に取り戻す
試みを止めてはならない。
話がまとまりませんでしたが。。。

内田さんのブログを読んで、現象学のことを思い出して、今の自分の身近な
問題についてあれこれと考えてみました。

大学で学んでいる学生さんたちに言いたいです。
目の前の利益になる知を学ぶことも大事ですが、
「自分」を創る土台は学生時代に学んだことだと
思います。
役に立たないと思われるものでも、自分の「身体」が欲するものを
学んで欲しいです。

未来は科学やAIが創るのではなく、人が創るのですから。

2020年入試改革に向けて 2016年東大・一橋大記述問題に思うこと

動画ページで2016年一橋大新傾向の自由英作文と
東大の要約・和訳問題の解説を扱った。

http://esnenglish.world.coocan.jp/englishmovie.html

予備校の解答とは切り口をかなり変えて作成してみたので
これでよいのかどうか多少心もとないが、それでも
1つの解答の可能性としては提示できたのではないかと思う。

(卒業生の皆さん、他校の先生方、ご意見があれば
是非頂けると助かります!)

東大にしても一橋大にしても「記述力重視」の入試を
従来から行っており、多少切り口の変化はあると思うが
2020年の全体の方針転換をむかえても大きな変化はないのかも
しれない。もちろん、Outputで日本語よりは英語を用いたもの
をもっと重視するのかもしれないが。

「記述力重視」は悪いことではないし、今後の日本の若者を
世界に通用する人材、よりよい日本社会を創造する人材として
育てるうえで必要なことだと私も思う。○×型の問題ばかり
解いてきたような人材ではなく、「答えを創造出来る人材」
こそ必要だと思われるからだ。

ただ、授業動画を作成していて、あるいはこれまで生徒を
指導してきて、大きな問題点、いや「課題」も感じざるを
得ない。

「記述型」の試験では得点誤差が非常に大きいということである。

昨年度の高3生の授業では、和訳・要約・自由英作文などの
演習を毎時間行ったが、全ての得点を分野別にデータとして
保存してある。

それを見ても得点のバラツキが非常に大きい。
難関大に合格した学生でも、毎回安定して高得点というのは
珍しい。本校がお預かりしている生徒さんの学力が突き抜けた
学力ではないとしても、東大や一橋大でさえボーダーラインに
多くの学生が存在すること、飛び抜けた学力の学生はそうした
大学の合格者ですらごく一部だということを考えると、多くの
学生が本番の出来により得点が大きく上下しているのではない
かと思われる。

また生徒の側から考えてみると、「学力伸長の実感を持ちにくい」
ということも問題だ。勉強しているのだから、学力が落ちている
ということはないのだが、要約や自由英作文の得点が勉強すれば
するほど伸びているとなかなか実感出来ない。これは学生の側か
ら見ると、辛い。達成感がなかなか得られないのだ。

これは英語だけでなく、国語でも言えることだが、簡単に言うと
努力して築き上げてきた学力よりも、その場での問題との
相性による得点誤差の方が大きく出てしまう記述問題に対して
学習動機を維持するのが難しいということになってしまいがち
である。

私は、課題は学生ではなく出題者側にあると考える。
要するに普遍的な評価法を学生の側に提示出来ていないのだ。

特に入試では総合点は分かっても自分の書いた答案がどう評価
されたのかを知ることが出来ない。各予備校が再現答案を材料
に得点を推定し採点基準を推定して指導に役立てているが
それが精いっぱいのところで、正確なところは誰にも分からない。
恐らく大学によっても異なるのだろう。

仮に大学によって評価が異なるのだとしても、それはそれで
構わない。大学によってアドミッションポリシーは異なる訳だし
求める学生の学力も違ってよい。それでこそ大学の多様性は
保証されるし、日本の人材育成の多様性も実現する。大いに歓迎だ。

しかし、「何がどう評価されたか分からない」という状況を
放置するのはいかがなものか?学生には「○×ではない学力」
を要求し、自分たちは点数しか発表しない姿勢は明らかに
不誠実だし、自分たちの評価に対して自信が持てないのか?
と勘ぐりたくもなる。

大学入試で記述問題を出題されている担当者にお願いしたい。
少なくとも採点基準を発表して下さい。
そこに各大学の考える「思想」が必ず出てくるはずだから。

そんなことをすれば、予備校産業を中心とした「対策競争」
を加熱させるだけだとお答えになるのでしょうか?
いやいや、すでにそうなっています(笑)。
受ける教育による得点力の方が、参考書によって独自に創り上げる
学力よりも大きくものをいう問題を出題されているわけですから。

変わらなければならないのは子ども達ではなく
大人の側ではないか?

この問題に限らず、教育が論じられる時には
どうしてもそう思ってしまうのは私だけでしょうか?

動画更新 約50本達成

熊本の震災で学べなくなった子供たちに関する新聞記事を読み
何か出来ることをと思って始めた授業動画作成。

5月の連休から少しずつ作成し、ようやく約50本になった。

残念ながら、今の私の力では、被災地の子ども達の
お役に立つことは出来ないままだが、ツールの使い方も
少しずつ覚えながら、以前よりはスムーズに作成出来る
ようになった。

まだまだ私の今の力では遠い被災地に教育を届ける
などといったことは出来そうもないが、一歩でも
前に進めるように日々頑張りたいと思う。

もちろん、今担当している生徒達にも
「今の私が出来る最高のもの」を与えられるように
頑張っていきたい。

Active Learningについても
ICT活用についても
IBやTOKについても

私はへそ曲がりというか、
その効果については依然懐疑的な部分を持っている。

ただ、学ばずに毛嫌いしたりするのは不味いわけで
今回の授業動画作成は、自分の授業改善の大きな
ヒントになる。

まず、自分の授業を客観的に他者として見れる。

□「え~」が多いなぁ…。

□ ちょっと待て、今の説明だと分かりにくい…。

□ 実際の授業なら、どこで生徒を動かす?

□ 生徒はこれで出来るようになるのか?

こうしたことを考えるヒントや材料を
自分の授業動画から得られるのは財産だ。

私は不器用な教員だが、とりあえず自分が動くこと
でしか若者は動いてくれないという信念はある。

恩師である浅野高校のY先生は、郷土の山口の
維新志士達の熱烈なファンで郷土史家でもあるが
幕末の松下村塾の「教え」「学び」に共感し
熱い授業を私たちにぶつけてくれた。

教育に行き詰ると、Y先生の言葉が浮かぶ。

「結局、分かってくれよ!俺こんなに一生懸命なんだよ!
それしか若者には届かない」

この言葉は、教員を長く続けていけばいくほど身に染みる
言葉だ。
目の前の若者と繋がること。
目の前の若者を学びと繋げること。
それを日々継続させること。

新しい教育を検討されている先生方も日々迷い
奮闘なさっている。

多くの場合、方法論や教育効果に目が行きがちであるが
本質がそこにあるはずはない。

学び続ける人材、学びと繋がり続ける人材
そうした人材をどれほど生み出せるか?

短期的な教育効果をシビアに測るのもよい。
進学実績も逃げるべき物差しではなく、シビアに測ればよい。
楽しく学ぶ今の子ども達の姿に喜びを感じるのもよい。

だが、本当の成果はその先にあることを忘れてはならないと
改めて思う。

また、なんか話それましたね(^_^;)。

要するに、

□ 新しいこと始めて頑張って続けたら動画50本出来た!
□ 被災地支援は全然駄目。未熟!学んで成長する!
□ 動画作成は自分の客観視によい!
□ 新しい授業の可能性を!でも現場が大事!
□ 大人も努力する、進化することが大切!
□ やはり教育は人と人との繋がりが生むもの!
□ 教育の成果は、あらゆる「物差し」から逃げては駄目!
□ 教育の成果は、目先の子どもの笑顔で止まっても駄目!
□ 学び続ける人材を育てよう!

ってことです。