2020年教育改革の一部として
調査書の大幅変更が検討されている。
学力一辺倒ではない入学者選抜を行う、ということには反対しない。
だが、なぜそれが「調査書の変更(記載事項の増加)」になるのか、意味が分からない。
複数の有名私立難関大学の広報長にお尋ねしたところ、『入試における選抜の参考資料として調査書内の教員所見は見ていない』との回答を得た。
それはそうでしょうね。
評定の価値だって高校のレベルによってバラバラ。
教員の主観などを点数化すれば大問題。
しかし、これまで長い間、そんなことは薄々分かっていながらも、現場の多くの教員は調査書の所見欄を埋めるのに莫大な時間を費やしてきた…。
関係ないと分かっていながら、合格して欲しいという気持ちで必死に書いてきた。
大学関係者はそれをどう思っているのだろう?
そう言われるのが嫌だから、『参考にはしてます』とコメントする大学関係者がいるなら、心の底から軽蔑しますね。
他人に無意味な無駄を強要する人間が、社会を悪くするたちの悪い人間だと私は考えますので。
必履修科目の単位が取得されているかどうかの確認なら、評定と出欠さえ分かれば十分なはず。
あとは、選抜する大学関係者の皆さんが、合宿でも何でもやって直接本人を見て頂けませんか?
ちなみに、調査書を書くだけではなく、調査書の打ち出し、折り、袋詰め作業も教員の業務、既卒生の調査書の打ち出しも教員の業務にしている学校まであることをご存知ですか?
高大接続、高大連携は大いに結構ですが、立場が弱い高校側から見るとこれまでの連携話はパワハラにしか感じられないのですが。
提案です。
① 調査書の所見欄を全て廃止し数値データのみにする。
② 学力試験で見れない本人の素養は大学主催の合宿などのイベントで大学関係者が自分の目で見る。高校教員もそのイベントにobserverとして参加し何が各大学で求められているのか確認出来るようにし、その上で有機的な高大接続を高校・大学で検討する機会を作る。
あるいは、大学関係者が高校の授業をプロ野球のスカウトのように見学し、日常授業への取り組みを見て将来性を評価する。
いかがでしょう?
ついでに言っておくと、高校受験における「内申書」も30年以上前から止めて欲しいと思っている。
「公」を軽んじて、「エゴ」をむき出しにし受験の為にのみ学習するような学生とそれを肯定する保護者を縛るためのツールとして使われてきたのかもしれないが、それには別の対応を行うべきだ。
逆に学校側からの「脅し」として使われたケースを身内の実体験として知っている。
「行事で〇〇係をやらなければ内申書は悪くなるぞ」
いずれにしても、「学力以外」の要素を評価するような代物とはとても思えない。
お題目だけ立派。
上手くいかないのは現場が悪い。教員、生徒、親のいずれかに問題がある。
違うでしょ?
現場も知らず、理解しようともせず、それなのに、「偉そうなこと」を言う「部外者」が余計なことをするからいつまでたっても「教育」がよくならないのでは?
Opinionです。「怒り」にまかせて書いてみました。